しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

斎藤別当実盛

2021年10月21日 | 銅像の人
場所・ 石川県小松市上本折町 多太神社



「平家物語」  世界文化社 1976年発行

実盛

武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、
ただ一騎、
引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。

木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ
「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。
さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。

「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」

・・

駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。

「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤別当実盛ではないか。
幼目に見たことがあるから覚えているが、その時もうごま塩頭であった。
今はさだめて白髪になっているはずなのに、この首は鬢髭の黒いのは解せぬ。
樋口次郎は、年来親しくつきあっていたから見知っておろう。
樋口を呼べ」
という、樋口次郎は一目見るなり、
「ああいたましい、たしかに斎藤別当実盛でございます」
と、涙を流した。
樋口次郎はなおも落涙しつつ、
「この首は白髪を染めております。
ためしに髪を洗わせてごらんなされませ」
義仲が、その首を洗わせてみると、なるほど白髪になってしまった。






「芭蕉物語・中」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行

小松というところに来たが、小松とはかわいらしい名である。
その名にふさわしく可憐な松が生えていて、
その小松に吹く風が、その辺にある萩や薄をなよなよとなびかせている。
芭蕉はいたく旅情をそそられたのである。

多田神社に立ち寄り、次の句を奉納した。

むざんなや甲の下のきりぎりす

「甲」は多田神社へ奉納された実盛の甲である。
芭蕉はその甲を実際に見て、その悲壮な最期を思い浮かべたのである。




撮影日・2020年1月28日


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真備町「岡田更生館事件」その4・・・「鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児」から

2021年10月21日 | 昭和21年~25年
岡田更生館があった当時の日本は、
両親がいる子は、ぎりぎりの食事ができた。
片親の子は欠食がち、
孤児は、働くか、かすめとるか、その日暮らし。生存権以前。

戦災孤児が主役のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、国民的人気となり映画化され、主題曲は今でも童謡として歌われている。



(昭和23年「鐘の鳴る丘」主演・佐田啓二)


「この30年の日本人」 児玉隆也  新潮社  昭和50年発行 
鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児

”緑の丘の赤い屋根”に38歳の医師品川房二は東京からやってきた、
「あれから25年か」。

25年前の少年は、浮浪児と呼ばれていた。
5人の少年が、1人の復員兵と暮らした丘である。
そして”トンガリ帽子の時計台”は、その後700人を超える孤児たちの人生に時を刻んだ。
品川房二は、元の名を斎藤房二といった。
菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がまだ「時代」そのものであったころ、
彼は靴磨きの少年であった。

房二は、静岡空襲で父を失い、母は火傷を負って死んだ。
房二は兄弟と転々とするうち、ガード下に寝る少年となった。
やがて浮浪者狩りで捕えられ収容所に送られた。
12歳の房二は、収容所を三度脱走し、そのつど捕まっている。

昭和22年も夏に夏に入ろうとしていた時、新設された「葵寮」には60人の少年がいた。
汗と垢で異臭をはなち、ぼろぼろの衣類は寝小便と泥にまみれて、長く伸びた頭髪には虱が巣くっている。
葵寮の鉄格子に監禁された少年たちは
「銀シャリもってこい!」
「煙草吸わせろ!」
「大人のうそつき野郎!」
と、刑務所の暴動さながらに暴れ、やがて諦めて静かになった。
少年たちは、逃亡、入所、逃亡、入所をくりかえした。
夕方になるとラジオからひとつのメロディが聞こえてくる。

緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴ります きんこんかん・・・

葵寮の鉄格子が問題になり、職員間の内紛や思想的対立が表面化した。
昭和22年12月5日、品川博と5人の少年たちはリュックを背負い鍋釜を背負って寮を出た。
彼等は互いに誓文を書き、こんな一行をつけ加えた。
「この子供たちは浮浪児ではありません。浮浪児狩りには絶対に連れて行かないで下さい」
落ち行き先は、茨城県古河。
だが地元住民の反対にあい、一夜で上野の地下道に寝ることになる。
師走の地下道の淡い電灯の下には、復員乞食や男娼や、浮浪児であふれていた。

古巣に戻った少年たちは嬉々としてこんな仁義を切るのであった。
「おひかえなすって、おひかえなすって、
手前生国とはっしましては遠州でござんす。
石松で名高い森町ではございません、歴史に聞こえた三方ヶ原、
チンピラ浮浪児もふるえあがった、鉄の格子の葵寮、
鉄の格子で6ヶ月、すいとんかぼちゃばかり食ってはいたが、
いささか筋金が入ったしがねえ戦災孤児の旅烏でござんす。
頭を含めておいら6人、親はなくとも子は育つ、
仮寝の宿の地下道も皆さん方とは筋違い、
チャリンコ、カッパライは真っ平ご免、
げそ磨きはしていても希望は高し富士の山、
愛と誠のヤサを建て6人仲良く暮らすまで、苦難の道を奮闘努力、
奇特な御仁は切に御援助・・・・・」

少年たちは靴を磨いて食物を得た。
やがて少年たちは品川の故郷前橋に移り住む。
それから赤城山の麓の村に、赤いトンガリ屋根の時計台が立つまで労働が年々つづいた。


・・・・・・


5人の浮浪児はそれぞれの人生を得、この丘を下りていった。
家を自分たちで造る---という”あの時代”が、もう終わったことを品川房二は知っている。

品川博は、今年55歳である。
彼は、結婚をしないままこの歳になった。
時折「何か大きな仕事をする人は、その人の一番大切なものを捨てろ」というシュバイツアーのことばを思い出すことがある。
シュバイツアーは音楽を捨てた。
自分は、気がついてみると結婚を捨てていた。



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リンゴ村から  ~青森県りんご発達史~

2021年10月18日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
子どもの頃、
昼飯と晩飯の間に腹にとおすものといえば、
ふかし芋やあられのような自給品を戸棚から出して食べていた。

”おやつ”とは町の子が3時ごろに食べるお菓子のようなものを想像していた。
ある時、母に
「皇太子(←今の上皇)が食べるおやつはどんなものかなあ?」と聞くと、
「リンゴやこじゃろうなあ」
リンゴは、現物を見たことはなかった。絵本で見て桃のような形で赤い果物だった。
皇太子は一つのリンゴを兄弟で等分して食べるのではなくて、一個まるごと一人で食べるんだろうな、と子ども心にうらやましく思ったりもした。



(長野県小布施町にて 2017.9.26)

「リンゴ村から」 作詞:矢野亮,作曲:林伊佐緒、歌:三橋美智也

リンゴ村から
覚えているかい 故郷の村を
たよりもとだえて 幾年(いくとせ)過ぎた
都へ積み出す まっかなリンゴ
見るたびつらいよ 俺(おい)らのナ 俺らの胸が

おぼえているかい 別れたあの夜
泣き泣き走った 小雨のホーム
上りの夜汽車の にじんだ汽笛
せつなく揺するよ 俺らのナ 俺らの胸を

おぼえているかい 子供の頃に
二人で遊んだ あの山・小川
昔とちっとも 変っちゃいない
帰っておくれよ 俺らのナ 俺らの胸に



三橋美智也の歌は大ヒット、
映画化され(赤胴鈴之助の)梅若正二で、映画も(小)ヒット。




(青森県黒石市から見る岩木山、秀麗な形は雲に隠れても魅力があった 2018.6.28)





「地方の時代」 山田宗睦編 文一総合出版 昭和53年発行

青森県りんご発達史  波多江久吉

りんご栽培の大集団地 

青森県のりんご栽培は昭和50年に年間45万トンで、青森県と言えばりんごが連想されるほどの主産地を形成している。
その成立のいきさつは偶然ではない。
気候風土などの自然条件の適地性発見に出発しているし、
その地方の人々の取り組み、育てあげてきた集団の長い間の努力の蓄積されたものであることを見落としてはなるまい。

日本のりんご百万トンも、その半分は青森県の生産で、青森県が百年かかって日本のりんご生産を成立させたものであり、
食品消費の習慣もまた同時に創造開拓しながらの産地形成であった。

その8割が津軽に集中している。
津軽平野と岩木山山麓の一帯は、水田でなければすべてりんご園で、
少し高い所にあがれば一望数千ヘクタールの大集団が展望できる。
よくもこれほど植えたものだというほどの大集団である。

風と雪のきびしさのなかで
青森県は雨、雪、風という気象条件からいうときびしい環境のもとにある。
豪雪地帯に欧米のりんご園はない。
致命的なのは台風の襲来で収穫の前に大量の落下をする。
にもかかわらず、りんごのふるさとになったのはなぜか。
それは、ここに住む人々は生きる道をりんごに求めざるを得なかった、
稲作の冷害凶作から逃れる唯一の道としてりんごを発見し、りんごに命運を託した。
過去250年間に70数回の冷害凶作があった。凶作のたびに数万人の餓死者が出る地帯であった。


文明開化の落し子

北海道開拓使の黒田清隆次官がアメリカから莫大な種苗を持って帰った。
このなかに75品種のりんご苗木もまじっていた。
開拓使は、次の年から接木をして苗木の国内生産を始めた。
この接木作業に従事したのは、東京の植木屋で、江戸時代からのすぐれた接木技術が早速応用された。
江戸時代の植木屋は和リンゴを接ぐのにカイドウを台木にして接げばよく活着することを知っていた。
接木繁殖した苗木は59府県に配布した。
各県とも失業旧士族に配布され、青森・秋田・山形・岩手などが反応した。
旧弘前藩の菊池盾衛という熱心な士族が先頭にたって栽培を始め、
明治13年(1880)には、この地方の産業となる確信を得るまでになった。

士族と地主とキリスト教

アメリカ人宣教師イングが信徒にりんごの実を食べさせた。
信徒はりんご栽培に大農場の「敬業社」を創業し、高収益をあげた。
士族は自分たちが作った苗木を地主たちに売りつけた。
士族は苗木業者として生活の自立を得た。
西南戦争後、政府は初期の園芸保護から米麦・養蚕農政へと転回した。
とり残されたりんご栽培は、かえって士族の指導の手にゆだねられ活躍の場を与えられた。
病害虫はじめとする障害を研究し、指導した。うまくいかないと苗木は売れない。
「品評会」を開き、消費者の高い品種をえらび出し、「りんご1本、米16俵の収入」という誇大宣伝まで行われた。
当時見放されていた失業士族が、反官僚的気性の強さをもってりんご栽培に情熱を傾けた気風が、その後の主産地形成の精神的風土になった。


最初の繁栄から挫折へ 

日本鉄道会社の開通

明治以前には、東方地方から移出される商品は米・馬・砂金などであった。
北前船で、下関・瀬戸内海・大坂までの航路が開けていた。米はこの航路で運ばれた。
明治になって、りんごのような腐敗性食品を中央に運搬する手段はなく、せいぜい一地方の自給的商品としてとどまる以外になかった。
ところが思いがけない繁栄の道をたどることになる。
日本鉄道会社の上野青森間が、1891年(明治24)に開通した。
これほど早く開通したのは帝政ロシアのへの北方国防対策として促進されたものであった。
また北海道開発のためにも開通は急がれた。
にちに東京の文化は、東北を素通りして北海道へいったと評された。
東北線によってりんごが東京に出荷されるようになったことは、青森県にとって大きな恩恵だった。
直通列車が、わずか26時間で上野に到着するのであるから輸送革命である。
津軽平野の農村から馬車を連ねて青森駅へりんごを運んだ。
3年後青森・弘前間が開通した。
日清戦争後の賠償金ブームは都会における消費の旺盛をもたらし、これに乗り青森県のりんごは最初の繁栄期が訪れた。


挫折と再建

全国いっせいに出発したりんご栽培は、明治30年代続々と脱落が始まる。
病害虫の発生である。
弘前城下の士族の邸宅の畑はすべてりんご園、夏の日に樹の下をくぐれば白衣が黒く汚れるほどの惨状となった。伐り倒す以外になかった。
九州四国の暖地のりんご県は20年代末に脱落。
東北も後退、青森と北海道が孤塁を守るにすぎなかった。
日本のりんご栽培は終わったかもしれない。
立ちがったのは、
稲作だけに頼っては生きていけないとの信念を持つ多くのりんご栽培農家である。
伐木から始まり
国光・紅玉など経済品種に改植された。
樹列間隔も従来の二間半を三間半に改めた。
害虫駆除のため、樹によじのぼりタワシで樹洗いをした。
果樹の一つ一つに紙袋をかぶせた。
この人海戦術でどうにか切り抜けたのが日露戦争後の1906(明治39)年である。
もうこのとき、青森県と競合する産地はなかった。


農政と農学への不信

明治期以降の農政は国際収支の改善にすぐに役立つ米麦・生糸・茶・綿・煙草などの奨励であった。
果実の栽培などは一種のぜいたく品で国益になる農産物ではないとの考えが強かった。
国益農産物には政府の手厚い保護が加えられ、青森県にも桑苗の配布、養蚕教師の派遣などが繰り返し行われた。
園芸方法もフランス流の整枝法をまねてもさっぱり実はつかなかった。
学者の説く栽培法は信ずるに足らず、自らの経験のなかから技術を生み出す以外になかった。


技術体系の成立

1911(大正14年)から大発生した落葉病は「夏の土用に一葉をとどめず」くらい落葉し、第二回目の挫折となった。
県の技師によるボルドー液の散布によって防いだ。
これにより科学への目が開かれ、害虫駆除や剪定法など農と学が共同して技術体系を作り上げた。
栽培を初めてから50年の歳月を要した。
大正末期、一度はりんご栽培をあきらめていた諸県が再び始めた。
大正12年長野県でも栽培が始まった。


りんご産業の成立から戦時荒廃へ 

農村恐慌

昭和初期、日本は経済恐慌のどん底に落ち込む。
昭和2年金融恐慌、
昭和4年世界恐慌、
昭和6年東北地方の米の大凶作、満州事変が始まった。
米の冷害凶作は昭和7年、9年、10年と青森県を襲い、いわゆる”昭和農村恐慌”を現出した。
朝鮮・台湾米もなだれ込み米価は急落した。
農家は冷害と暴落の二重苦を受けた。
りんごの価格も低落したが、りんご農家には娘の身売りも欠食児童も出なかった。


りんご産業の成立

日本のりんご栽培が産業として成立したのはこの時期であった。
一方、肥料・農薬・農機具などの生産手段も急速に発達した。
農薬・農機具工業が成立したのもこのときである。
青物問屋から、中央卸売市場の公開セリ制度に移ったのも昭和初期である。
県営検査制度を実施したのは昭和8年、不公正な取引を追放した。


国賊扱いされたりんご作り

昭和15年には待望の一千万箱生産を実現した。
ところが、翌昭和16年に太平洋戦争に突入してからのりんご栽培農民は国賊扱いに近い統制の抑圧を受ける。
りんご生産が、戦力増強のための米麦主要食糧の増産に役立たないばかりか、
その妨げになるという非難からである。
昭和16年から本格的な配給統制にはいったが、取締りのきびしい大都市を逃れて中小都市に流れた。
警察はもとより大政翼賛会まで監視摘発の目が厳しくなり、
ついに国家総動員法の適用によって、田植え優先、田の三番除草(7月上旬)が済まないうちにりんご作業をしたものは検挙される、という有様であった。
昭和18年頃のりんご村では、
村の駐在巡査が火の見やぐらの上にあがって双眼鏡でりんご園を見張り、
木にあがって袋掛けをしているのを見つけ次第走って行って検束、留置するという厳しさであった。
このためりんご園は放任され、
おびただしい害虫の繁殖となり、樹は食い荒らされて廃園状態になった。
昭和20年には最高時の2割出荷となった。
戦争がもう2~3年続いていたらりんご園はほとんど枯死したであろうといわれたが、そのぎりぎりのところで平和が戻ってきた。


戦後のりんご園 

りんごの唄

復員や引揚で戻ってきた労働者がすぐに廃園復興の作業に立ちあがった。
折から、
日本中にはサトウ・ハチロー作・並木路子唄の”りんごの唄”が大流行していた。
廃墟となった灰色の町で、ヤミ市に赤いりんごの実がどれほど人々に平和の尊さを感じさせたことであろう。
りんごはヤミ市で飛ぶように売れた。
農地改革で、りんご園が自分のものになった喜びが訪れる。
戦後わずか3年、昭和23年には戦前の最高水準を突破の生産をあげるにいたった。


安定生産運動

青森県のりんご栽培には、風土病とさえいわれたモリニア病という病害がある。
花腐れ病ともいう。
この病菌は空中飛散するので、自分だけでは守り切れない。
りんご協会は一大人海作戦を展開した。
春先の清掃、
5日に1回の薬剤散布、
人工授粉、
摘果作業、
これをみんなにやってもらう意識改造運動と巡回講座が毎週ひらかれた。


高度経済成長

農村の労働力は半減した。
りんごの生産の方向は”量より質”への時代に移る。
大量な大衆果実より小量の高級果実が、生産・流通・消費とも支持される情勢になった。
昭和43年約二百万箱も売れ残って腐敗した。
ここで国光・紅玉に見切りをつけて、スターキングとかふじに切替える高接ぐ更新を始めた。
回復までの数年間は大都市の土建労務者となった。


りんご百年祭

昭和49年、青森県ではりんご百年祭が催された。
アメリカからりんごの恩人イングの遺族らを招いて盛大に祝い、
将来への決意を表明された。
りんごを守ることがまず生存を守る道であることを三万戸の農家は信じている。
納得しなければ動かない、この人間集団が”無意識の組織”として数多い挫折の歴史をくぐり抜けてきた。
ときによみがえる伝統が危機にのぞんでものをいうことであろう。




(青森県平川市津軽SAから見る岩木山、この日も岩木山は雲だった 2018.6.29)



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星野仙一記念館

2021年10月15日 | 無くなったもの
場所・岡山県倉敷市阿知 倉敷美観地区 
無くなった日・2021年11月30日
撮影日・2010年2月6日





今日(2021.10.15)星野仙一記念館の閉鎖が決まった報道があった。
報道によれば、記念館は2008年に開館し14年間続いたそうだ。
その間、2013年に星野氏が死去した。







展示品は、
「記念館に展示されたユニホームや記念球などの1000点以上の思い出の品々は、閉館後に倉敷市へ寄贈される。
今後は市や関係者と相談したうえで展示方法などを決めていく予定だ」(サンスポWeb)。






マニアの蒐集物に、行政の関与は、けっこう難しい問題。
市が全部引き取っていいんだろうか?
倉敷市民はどんな意見なのだろう。



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音戸渡船

2021年10月15日 | 無くなったもの
場所・広島県呉市 音戸の瀬戸 
無くなった日・2021年7月より運休→10月2日に呉市が休止決定
撮影日・2009年3月12日



呉市を代表する観光名所である”音戸の瀬戸”は、
本土の警固屋と倉橋島の音戸間、120mを結ぶ渡船があり、いい風情があった。
貨物船や旅客船が激しく通る過ぎる、わずかな時間を、潮や波にも気を付けながら安全に渡していた。



乗船料は100円、
手を挙げれば船は対岸から来たり、出発していた。



今年の夏ごろから、中国新聞に音戸渡船の記事がよく載るようになり、運航の継続が懸念された。
船の故障や乗客減で、船頭さんが廃業を決めた。

呉市は休止扱いにして、もし新しい船頭さんがいれば、今後再開もあるそうだ。






(この写真2枚は↑↓は2021年4月26日・第二音戸大橋から見る音戸公園と音戸渡船)



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”里庄町の山男”  徴兵忌避で逃避12年

2021年10月12日 | 昭和26年~30年
里庄の山中に12年間、ドロボーしながら隠れ住んだ人がいたとは・・・今日まで、まったく知らなかった。


(里庄町・椿の丘公園から見る”竜王山” 2020.7.27)






「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行


徴兵忌避で逃避12年

岡山県の片田舎の農家に盗みに入り捕まった”山男”の話。
---39才のこの男、小さい時から大の兵隊嫌い。
召集令状の赤紙が来た。しかし、どうしても軍隊に入る気にはなれず、山にこもる。
それから12年。

「山男が出る」といううわさが、岡山県浅口郡里庄村の村民たちの間で、
いつのころからか話題になっていた。
ある家では、十数回も米や、塩や干物が盗まれる。
村のはずれの竜王山の山裾の民家は、かたっぱしから被害を受けた。
盗難届の書類は厚さ10センチ余りも積み重なってくる。
これは、流れ者のルンペンの仕業だろうと思っていた、だが、だれ一人として、
その山男なるものの姿を見たものはいない。

昭和30年4月10日の午前3時ごろ、山を降り、田や畑の中を過ぎて、一人の男が里庄村新庄の安田賢一さん方の、炊事場からタヌキのようにしのび込んだ。
板の間に置いてあったオケに入れた一斗あまりの米を、担ぎ出そうとした瞬間「泥棒や」と叫んだ。
オケをもって泥棒は畑まで逃げ、生米をかじっていたところへ、若者が追っかけ、わけなく捕まえた。

駐在の巡査が呼ばれた。
昨年の9月に一度、スイカ泥棒をして捕まったのが、この男だったが、
その時は、そのまま釈放した。
夜が明けて、男は玉野警察所(←玉島と思える・管理人)へ送られた。

取調べが始まって住所を聞くと、竜王山の山中という。
昭和18年から今まで、ずっと竜王山にとじこもっていたのだという。
うわさされていた山男の正体は確かにこの男ときまった。

男の本籍は、兵庫県美方郡射添村で、岸光夫(39)という。
射添小学校をおえて大阪へ出た。


兵隊嫌い。
兵隊検査を浮けたとき、彼はしょうゆをガブガブ飲んだ。
おかげで熱が出たし、背も小さいので、運よく丙種となった。
住友製鋼に入って荷揚げ人足のようなことをやっていたが、赤紙が来たのである。
仕方なしに仲間から餞別をもらい、大社行の汽車に乗った。
故郷の駅は香住だが、大社まで行ってしまい、8~9日遊び歩いているうち金もなくなった。
伯備線経由で岡山の笠岡へ行った。
笠岡から里庄村の夜の道をあてもなく歩いた。
里庄村には思い出がある。
里庄村のある家の酒男にやとわれたことがある。
歩きつづけ、山のなかへ入ってしまった。

昼間は岩かげに隠れたり、山を歩いたり、そして夜になると、山を降り、農具小屋などで眠った。
最初は畑泥棒を専門にして、芋をとった。
芋がなくなると桃の季節がくる。次に柿、大根。自然は人間を餓死させない。
ワナをかけるとウサギやタヌキもよくかかって食べた。
そのうち欲が出て、
米が食いたくなり、山すその人家からかっぱらいをはじめるようになった。
ついでに着るものも失敬した。
泥棒ついでに本、雑誌、新聞は必ず手に入れた。

一年もすると、もう何も考えなくなった。頭はからっぽ。
着るものの事、食べものの事、それだけを本能的に考えていた。
終戦はむろん知っていた。
しかし何十回もコソ泥をやっていたので山を降りる気にはなれなかった。

彼は大のきれい好きで、毎日行水、頭の毛はカミソリで剃っていた。
山頂の彼の「貯蔵庫」には、地下足袋、しょうゆ瓶、マッチ小箱、せっけん、軍隊服、ワイシャツ、手ぬぐい、パンツ、靴下、下駄、塩、たくあん、高野豆腐など。

「つかまったのは欲張りすぎ、もっと遠くまで逃げてしまえばよかったんです。
そんでも、
刑を終えたら、真面目に働きます」
とも、述懐するのである。




大阪編集部・昭和30年4月24日


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9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した

2021年10月12日 | 昭和21年~25年
7~8年前ある旅行会社のツアーで3日間同じだった、広島市の方(中年女性)から”私の特技”的な自慢話を聞いたことがある。
彼女の自慢は「NHKのど自慢」に出場するのが特技だというのである。
出場するためには”秘訣”がある。
まず書類応募の際、歌う”曲選び”の秘訣、その曲を歌う理由の秘訣。
予選では客受けする衣装や踊りパフォーマンスの秘訣、話題の秘訣。
それができれば、ほぼ本番出場はOKであるそうだ。

今から76年前、NHKのど自慢が始まり、その年の秋
9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した。

・・・


「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行

観客席には、復員服の男や、モンペ姿の女たちが、ぎっしりひしめき合っていた。
そこは、横浜市伊勢佐木町に近い焼けビルの二階で、
場末の映画館を思わせる部屋の正面には、急ごしらえの、
粗削りの杉のステージが取り付けられていた。


「はい、次の方、お名前は」
「加藤和枝、九つ、長崎物語」

小っちゃななくせに、まるで大人の着るような裾の長い、
真っ赤なドレスを着た少女が現れた。
おでこの広い、鼻もちょっと上を向いて目だけがグリグリと大きい愛嬌のある子だった。
伴奏は天知真佐雄。
合図とともにこの子は歌った。


赤い花ならマンジュシャゲ
オランダ屋敷に・・・・
子供と思われぬサビのよく利いた声。

満場陶然たる中に、この子はすでに一曲を全部歌い終わってしまっていたが、
審査席からは何の合図もない。
島野アナウンサーも中ぶらりんの面持ちで、
「もう一曲、ハイ、何か」
と促した。
次にこの子が歌ったのは「愛染かつら」であった。

審査席では丸山・三枝両委員が複雑な表情をたたえながら顔を見合わせている。
その眼は・・・悪達者・子供らしくない・非教育的・・・ということを互いにすばやく語り合い、ついに丸山氏の手は横に振られた。

「はい、結構です。では次の方・・・」

・・・・・



美空ひばりが、のど自慢で鐘三つでなかったのは、よく知られた話だが、
ついでながら、
北島三郎は鐘二つ、
五木ひろしは鐘三つ、
島倉千代子は鐘二つ、
だったそうだ。








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昭和21年 私の”死の行進”日記  本間雅晴

2021年10月11日 | 昭和21年~25年
「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行


昭和21年 私の”死の行進”日記  本間雅晴

昭和17年4月9日、飢えとマラリアに悩む米比混成軍76.000人が捕虜となった。
炎天下88キロを歩いて後方基地に収納されたのは54.000人。
”バターン死の行進”である。
この時のフィリピン方面第14軍最高司令官が本間雅晴中将。
戦犯に指定され、9月15日出頭。


昭和20年
9月18日

今のところ、私の罪名はバターンの俘虜7万余名を飲食を与えず炎天に遠い収容所まで行軍せしめ、そのため多数の死者を出したというのである
我が軍の総兵力に匹敵する俘虜を歓待し又は自動車で輸送することは不可能で、これ以外手がなかったのだ。

9月28日
私の罪は指揮官として部下の行為に対する責任である。
この間発表された比島における暴虐(昭和17年8月以降の日本軍の暴行)は私の時代のものではないが、日本の将兵も非常に野蛮だという証明になる。
私たちは明白に旧日本を清算するための犠牲である。
結局軍人になったことが大いなる災いの原因だったともいえる。

10月8日
朝起きるとすぐ、弱った南京虫6~7匹を潰した。
本日、山下大将の裁判が始まる日。
山下の刑は直ちに私の刑だ。

10月15日
新聞を読む毎に愉快な記事なし。
日本人の軽佻浮薄 (けいちょうふはく)驚くべきものがある。
これだから負けたのだとも思う。

10月12日
今朝の読売によると、私のマニラ行きは確実なりとしている。
佐渡の町村長や東京の知人等が私の放免運動をいてくれているとのこと、
その芳志感謝の言葉もない。

12月8日
大森を去って巣鴨に行く。
素っ裸で健康診断を受け、2畳半の独房に叩き込まれる。
せんべい布団2枚、毛布1枚、枕なし。
コンクリートの室はふるえる位寒い。
食事も悪く、ご飯になにか汁をかけたものだけ。小さなミツカン2個。

12月9日
山下の死刑のことを考え終夜うとうとして過ごす。
山下大将が死刑となれば私も極刑を免れぬ。
山下の部下の残虐行為は言語に絶するものがあり、その犠牲者も5万数千という。
しかし責任罰という点から区別をつけまい。

12月12日
朝4時に起こされ、これから30分以内に出発準備せよと無理な要求をする。
厚木飛行場に行き9時半出発。
沖縄の伊江島飛行場に着き、
マニラに着いたのは9時半。
以前官邸だった物置に入れられる。
蚊帳なしで、蚊がいて眠られぬ。

昭和21年
元旦

格別死を怖れてはしないが、死にたいという気持ちもない。
こんな苦しみを早く切り上げたいと思う。

1月3日
8時半から公判開かる。
裁判長まるで検事の如き態度で弁護団の申し出をことごとく蹴る。
高津少将、検事側の証人に立ち、私に対する反逆的証言のみする。

1月6日
日曜で公判休み。
生きながら地獄の如し。
自殺の方法を考えている。青酸カリがほしい。

1月8日
いよいよ「バターン」の行進に入り、米軍曹いきりたって嘘八百を並べ、
余りのことに腹が立って涙が出る。

1月11日
全く知らぬ残虐な実例が次から次へと出てきて、
聞いているのが苦しい。
心身疲労困憊す。
膝が力なく崩れるような気持がする。

1月14日
今朝妻等一行到着の由。

1月24日
妻の顔を見、子供たちの手紙を読んで著しく死生を超越した気持ちになった。
聖作は「お父さんは日本の忠臣だと思う」と書いた。
尚子は「お父さんを飽くまで信じ、少しも肩身の狭い思いはしない」と言った。
これ以上満足を与えるものがあろうか。
妻は最後まで勇敢に戦ってくれた、唯感謝あるのみ。

2月9日
宣告は2月11日の午後3時。
勿論宣告は受ける前からと言わんより、公判開始以前から決まっているので、
これはほんの形式だと言っていい。
死刑は絞殺だろう。
何でもモルヒネの注射をやって殺して置いてから絞殺という形にするとのこと。
長い苦しみではない、アッという間に済んでしまう。
本間家の歴史に国家的の死に方をしたもののある事を残すのも悪くはない。
長生きをしたところでこれから20年位だ。
もう何もいい残すことはないような気がする。

・・・



本間氏の最後

2月11日「銃殺刑」の判決が下る。
マニラからモンテンルパの監獄に移された。

罪状は
1・オープンシティ(無防備都市)となった後のマニラを爆撃した。
2・バターンの病院を爆撃した。
3・比島全国にわたって婦女子を強姦または虐待した。
4・米軍捕虜に、いわゆる「バターン死の行進」をさせた、
など47項目に上っている。

徳川頼貞、今日出海氏らが弁護人として法廷に立った。
富士子夫人も、2月8日の法廷で本間の妻たることを誇りにしていると証言した。

4月2日夕刻、刑場に連行され、3日12人の銃殺隊により執行された。

辞世一首
戦友ら眠るバタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよし




(昭和34年4月5日、岡山県井原市東江原町宝蔵院にて
右が本間中将未亡人富士子さん、左が山下大将の未亡人久子さん。
ニュー井原新聞・昭和34年4月11日)




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立ち小便する「東京」

2021年10月11日 | 昭和21年~25年
「京女 立ってするのが 玉に疵」

祖母は、夏にアッパッパを着ることはあったが、下着は襦袢の一生だった。
とうぜん家でも畑でも、”立って”していたが、京女には程遠い農山漁村の貧しい農婦だった。
「もはや戦後ではない」(昭和31年)といわれた時代でも、その後でも、田舎の明治生まれの女性は、皆そうだったように思う。








「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行

立ち小便する「東京」

渡辺伸一郎(←NHK「私の秘密」の人・管理人)

今の東京は衣食住の三難に加えて、交通の第四難がある。
省線(JR)も昔のような正確無比、快適を誇っていたのとは事違い焼け残りの少ない車を無理に酷使、修繕もせぬ。
椅子のビロードが剥がれて中のバネや馬の毛みないな腸まではみ出していて、
これがことごとく発疹チフスのシラミの巣窟。
こうした車に、どっとばかりに押し乗り、まだどっと出る。寿司詰のことを西洋では「缶詰の鰯」という。
いつの日か、この缶詰にお目に掛かるであろう時、
「まるで敗戦直後の電車のようだ」と形容することであろう。

都の真ん中で、至るところ立ち小便できるのは敗戦日本の役得だ。
銀座の横丁で、焼け金庫の周りに麦を作る今日だ。
たまに共同便所があっても、黄金水の洪水で、底に穴の開いた安靴では踏み込むことは愚か、近寄ることすら出来ぬ。
焼け跡の立ち小便こそ便利なれ、よくぞ男に生まれけるだ
ある女代議士候補者はラジオで「何たる醜態でしょう、外国のお客様に笑われますよ」と放送していたが、男性を羨んでの故かも知れない。
「京女 立ってするのが 玉に疵」とあるからどうせ今や日本は世界に尻を捲って恥をさらしているのだ。
小便ぐらい何が恥ずかしかろう。

闇の女、百鬼夜行というのは昔の話。今や・・・・、
明るみの女、千鬼昼行である。

東京本社社会部 昭和21年6月2日





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福山城令和の大普請

2021年10月07日 | 令和元年~
福山城は今、「令和の大普請」と呼ぶ天守閣の再再建工事を実施中。
すっぽり覆われた天守閣を見に行った。

場所・広島県福山市丸之内「福山城公園」
撮影日・2021年10月5日


右・筋鉄御門(すじがねごもん)と左・伏見櫓。
本丸にあった楠木や松の大木を多く伐採していて、空間が広くなっていてびっくり。





二之丸の阿部正弘公銅像と、伏見櫓と鐘櫓。ここから見ても空間の広さを感じる。






これが工事中の、備後福山城天守閣。
完成は2022年8月28日。






それで、なにが変わるのか?
といえば、
昭和20年8月8日の空襲で焼失するまで現存してた天守閣の姿に戻す、というしまりのない理由。



他に耐震性に問題があったので、補強のためらしいが、それとて戦後の鉄筋コンクリートの建物で、あんまりほめられた話ではない。



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