しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「シベリア抑留」

2019年06月08日 | 占守島の戦い
「日本人はどんな目に遭ったのか」という副題の本の一部を転記する。


「シベリア抑留」長勢了治著・新潮選書 2015年発行より転記
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北東方面では、もともとソ連軍ではなくアメリカ軍のアリューシャン方面からの進攻に対処することを重点としてきた。

樺太
8月11日早朝、樺太北部国境付近で日本軍と戦闘が始まった。
樺太では地上戦と空襲によって一般住民2000人が犠牲になった。
8月22日停戦協定を結んだ。
8月22日、難民を乗せた輸送船3船がソ連潜水艦により撃沈され1700人以上が犠牲になった。

占守島
8月18日の早朝、占守島を砲撃し竹田浜に上陸をはかった。
幌莚島の第91師団は国籍も定かでない敵に対して直ちに反撃し、激しい戦闘になった。
兵力は日本が優勢であったが、札幌の第五方面司令部は18日正午、正当防衛以外の戦闘を禁じた。
21日には休戦協定が成立した。
日本軍600、ソ連軍3000の死傷者としている。
ソ連軍は南下し、31日までに得撫(うるっぷ)島を武装解除した。

北方領土(南千島)
樺太から別部隊が上陸した。
8月28日択捉島、9月1日国後島、9月5日歯舞諸島に上陸した。
アメリカ軍の動向を気にしながら南千島を強行した。

北海道侵攻作戦
トルーマン大統領はスターリン首相に、8月15日
「満州・北朝鮮・樺太」がソ連軍に降伏することを報せた。
これに対して、スターリンは16日
「全千島を含める事、北海道の北半分を含める事」を要求する回答をした。
トルーマンは18日、
北海道の北半分は拒否した。
以降、千島列島の中部・南部の占領を急いだ。

スターリンは「国民への呼びかけ」を公表した。
「1904年、日露戦争の敗北は国民に苦しい記憶を残した。我が国の不名誉になった。
我が国民は日本を撃破し、その恥を拭う日が来るのを待っていた。
40年間その日が来るのを待っていたが今その日は来たのである」
樺太・千島の占領は、日露戦争の復讐であることを公然と宣言した。

千島からの引揚げ
千島には敗戦時、17.000の民間人と53.000の軍人、合わせて70.000人余りがいた。
軍人は、千島に拘留6.000、ソ連へ47.000送られた。
千島はソ連占領地では唯一、ソ連兵による略奪が少なく、暴行もほとんどなかった。
米ソ協定による正式引揚は昭和22年4月から昭和23年12月まで行われ、6.000の軍人、9.600の一般人が全員強制的に退去されられ、函館に送還された。












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