しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

女工哀史②

2018年06月01日 | 江戸~明治
「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「女工哀史 津村節子」より転記
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細井和喜蔵(女工哀史・著者)は、女工募集方法変遷を三期に分け
一期、明治10年頃から(日清戦争の)27・28年頃まで。前借金制度もない、退社も自由。
二期、日清戦争~日露戦争頃まで。近代産業が急激に発展し、工場の数が増え、女工募集が困難になった。応募した人が待遇が悪いと、帰国して状況を訴える。そのため女工の拘束が必要となり、身代金、年期制度、強制送金制度、教育制度が生まれる。
三期、僻地の果てまで紡績工場の恐ろしさが知れ渡った。直接募集と嘱託募集に切り替え、女工を買いとる。ようするに女衒であった。都会では他の工場から、田舎では村長他世話役、警察まで買収し、娘のいる家につけ届をした。

労働条件については、勤務時間の長いことは紡績工場が最たるもので、12時間が平均で、これに夜業がある。
昼夜交替で作業する、疲労が激しく昼は騒がしく熟眠できない。運転を止めれば、清掃と段取り、止めなければ台から離れられない。
機械事故も多かった。

外出は成績のよい者だけが月に一度許され、部屋長・世話婦・舎監の検印を貰ってようやく門を出る。食べ物の買い物は門衛でとりあげられ、雑誌類は労働者意識には関係ないものだけを選択して与えた。
世話婦は自分の受け持ち区域から欠勤者が出るのを嫌い、叩き起こし、熱の女工は頭から水を掛けられ働いた。
建物は一畳一人分で、二交替のところは朝帰ったものが、昼業者のあとにもぐった。ふとんは湿気、雑菌の住みかとなった。

伝染病は隔離室を急造し、莚を敷いて患者を押し込めた。助からぬと断定し、余計な費用や手数をはぶいた。
臨終迫った者は、死体室という小部屋に連れていきグリスの着いた空き箱に詰め、火葬場へ運搬した。
病気の女郎を一室に閉じこめ干し殺しにした江戸時代の遊郭を思わせる話である。

文明開化、産業改革を支えた女工たちは人の扱いをされず、短い一生を心と体をすり減らして死んでいった。


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