今月末、東北3県(青森・秋田・岩手)に旅行する。
八甲田山にも行く予定にしている。
(夏でも雪が残る 2018.6.29)
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「青森県の歴史」山川出版2000年発行
八甲田山の遭難
日本の軍部は、対ロシア戦争の準備を進め、第八師団も訓練を行った。
寒冷地である満州での戦闘を予想し、青森の第5連隊と弘前の第31連隊に明治35年1月に厳寒期の耐寒訓練のため、八甲田山の雪中行軍を命じた。
1月23日、
青森を出発した第5連隊第二大隊の山口大隊長以下210名は一泊二日の予定で田代をめざした。
しかし、厳寒の中で案内人をつけずに出発して道に迷い、装備も不十分であったこともあり遭難し、救出後の死亡者を含め199人が凍死した。
最初に発見されたのは直立していた後藤房之助伍長であった。
その後、各地で遭難者や生存者が発見された。
生き残ったものも、凍傷のため肢体を失ったりした。
のちに後藤伍長の立像が、軍人らの拠金により遭難地の近くに建てられた。
なお、
同時期に弘前の第31連隊40人の一隊は案内人をつけ、弘前から八甲田山をこえ、青森までの雪中行軍に成功した。
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ウイキペディア
捜索方法
捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、それぞれが所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。
また、捜索活動初期の頃、北海道から辨開凧次郎らアイヌ人一行を招き、および彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。
遺体収容
粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕ける。衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。
水中に没した遺体川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。
腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。
最後の遺体収容は5月28日であった。
遭難の原因
気象条件
貧弱な装備
指揮系統の混乱
極端な情報不足
認識不足
「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。
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(八甲田ロープエー 2018.6.29)