城見小学校の同級生は、当時兄弟が多く、従兄妹まで気にするとは少なかったが、
学校内に従兄妹同士が多かった。
茂平の子どもも、同じヒラで遊び、ましてや用之江や大冝に行くということは少なかった。
交通事情も悪い時代は、結婚相手も、狭いというか(今では)近距離に住む人との結婚が多かった。
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「岡山県史 第16巻民族Ⅱ」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行
備中町の北部、西山地方の通婚園は、北は哲西町、西は広島県の東城町などとの交流が深く、この方面との縁組が多い。
平川でも県境に接している関係から広島県神石郡の油木・豊松などとの縁組が目立って多い。
吉井川・旭川・高梁川流域なども、昔は高瀬舟によって関連を持つ川筋との縁組もかなりあった。
笠岡市真鍋島などの笠岡諸島は、昔から島内婚が多く、しかも同じ部落の縁組が多い。
たとえば白石島でも、明治の終わりごろまでは島外からくる嫁はまったくなかったといわれる。
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小柳ルミ子が歌った名曲、”瀬戸の花嫁”の歌詞にある
♪あなたの島へ
生まれた島から
島から島へと渡ってゆくのよ
というのは戦後になってからのケースが多いようだとは、いくらか感じていた。
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管理人の場合、 (現在の市町村名)
父母は笠岡市と井原市、
祖父母は笠岡市と神辺町、
これでも遠方との結婚だったように思う。
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当ブログに載せるのは初めて
ではないが、
「瀬戸の花嫁」の写真。
茂平で最後の”瀬戸の花嫁”。
花嫁は神島から船に乗って茂平の港に着いた。
(昭和30年)
おじ(父の弟)の結婚式。花嫁が船に乗って着くのを待つ、茂平の子どもたち。
”嫁どりがある”
それは、茂平の子どもたちにとって、最高の娯楽のひとつだった。
(花嫁のあとを、ぞろぞろついて歩く茂平の子どもたち)
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笠岡市役所の屋上から、正午のメロディが流れる。
「瀬戸の花嫁」
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当時は夜に船でやってきたと話を聞いたことがあります