場所・福井県福井市中央 北ノ庄城跡
建立・1967年(昭和42年)
柴田勝家
剛直ひとすじの武将である。
織田信長の死後、その跡目をめぐり、秀吉とはげしい主導権争いを演じて敗れた。
民政家としては、
一向一揆を討伐して越前北ノ庄城主となった勝家は、
刀狩りを断行し、農民の武器をすべてとりあげたが、
これを農機具に鋳なおして、また農民に与えている。
国中から48艘の船を集め、これを鎖でつないで橋にした。
織田家の跡目を決める清洲会議で、勝家は信長の三男信孝を推したが、
丹羽長秀を味方につけた秀吉が成功した。
そのかわり、当時絶世の美女と謳われた信長の妹お市の方を妻にむかえたのである。
賤ケ岳の合戦で敗れ北ノ庄で自害、62歳であった。
「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行
柴田勝家像
「鬼」と呼ばれた猛将
織田信長の筆頭家老。
無骨な性格で武勇に秀でたため「鬼柴田」と呼ばれる。
水瓶を割って背水の陣で出撃して敵を打ち破った逸話から
「瓶割柴田」の異名ももつ。
「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行
「戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行
柴田勝家
通称権六。修理亮(しゅりのすけ)。
織田家筆頭の老臣で、天正3年(1575)9月信長の越前一向一揆討伐後、越前国主となる。
本能寺の変のときは、越後の上杉景勝にあたっていた。
賤ケ嶽の合戦で敗れて居城北ノ庄で自害した時は62歳で、妻のお市の方は37歳であった。
墓は、福井市左内町の西光寺にある。
撮影日・2015年8月3日
建立・1967年(昭和42年)
柴田勝家
剛直ひとすじの武将である。
織田信長の死後、その跡目をめぐり、秀吉とはげしい主導権争いを演じて敗れた。
民政家としては、
一向一揆を討伐して越前北ノ庄城主となった勝家は、
刀狩りを断行し、農民の武器をすべてとりあげたが、
これを農機具に鋳なおして、また農民に与えている。
国中から48艘の船を集め、これを鎖でつないで橋にした。
織田家の跡目を決める清洲会議で、勝家は信長の三男信孝を推したが、
丹羽長秀を味方につけた秀吉が成功した。
そのかわり、当時絶世の美女と謳われた信長の妹お市の方を妻にむかえたのである。
賤ケ岳の合戦で敗れ北ノ庄で自害、62歳であった。
「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行
柴田勝家像
「鬼」と呼ばれた猛将
織田信長の筆頭家老。
無骨な性格で武勇に秀でたため「鬼柴田」と呼ばれる。
水瓶を割って背水の陣で出撃して敵を打ち破った逸話から
「瓶割柴田」の異名ももつ。
「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行
「戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行
柴田勝家
通称権六。修理亮(しゅりのすけ)。
織田家筆頭の老臣で、天正3年(1575)9月信長の越前一向一揆討伐後、越前国主となる。
本能寺の変のときは、越後の上杉景勝にあたっていた。
賤ケ嶽の合戦で敗れて居城北ノ庄で自害した時は62歳で、妻のお市の方は37歳であった。
墓は、福井市左内町の西光寺にある。
撮影日・2015年8月3日
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