しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」波こえぬ契りありてやみさごの巣  (秋田県象潟)

2024年08月30日 | 旅と文学(奥の細道)

みさごの夫婦愛のような句。

芭蕉と曾良の旅は、酒田と象潟で佳境を超えた。
以後も越後・越中・加賀・越前へと旅をつづける。

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


波こえぬ契りありてやみさごの巣   曽良

象潟の九十九島の中に鶚(みさご)島という名の島があって、
岩上にみさごの巣がかかっていた。
鶚は、雌雄の仲が睦じい鳥といわれている。
それが高い岩上に巣を作っているのは、波も越えることのできない夫婦の堅い契があってのことだろうか、
といったのである。

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島  蚶満寺    
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

象潟は由利郡象潟町にかつてあった潟湖である。
文化元年(一八〇四)の地震で地面がもりあがり、緑の景観はなくなった。
昔九十九島といわれた島はほぼ残っていて、 昔の湯は水田になっている。
五月雨の季節に田に水をはって早苗を植えるころ昔の景観のいくぶんをとり戻す。

世の中はかくてもへけり象潟や あまの苫屋を我が宿にして  能因法師 (後拾遺集)

さすらふる我が身にしあれば象潟や あまのとまやにあまたたび寝む   藤原顕仲 (新古今集)

象潟の桜は波に埋もれて 花の上こぐの蜑(あま)の釣舟   宗祇(名所方角抄)


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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

二十日も二十一日も快晴であった。三日に亘って続いた芭蕉、不玉、曽良の三吟歌仙はようやく完了した。
二十三日は近江屋三郎兵衛宅に招待された。 
近江屋は本町二丁目に住み、三十六人衆の一人で裕福な商人であった。
俳諧の嗜みもあり、俳号を玉志といった。招待されたのは芭蕉、曽良、不玉の三人で、
納涼の興に真桑瓜が出された。
「皆さんに句を作っていただきます。もし句のできないものは、瓜は召しあがれません」
とにかくたいへんなごやかな夜会であった。

 

二十五日にいよいよ酒田を出発することになった。
最上川の河口にある船に乗る渡し橋まで人々が見送りに来た。
不玉父子、徳左衛門、四郎右衛門、不白、近江屋三郎兵衛、加賀屋藤右衛門(任暁)、宮部弥三郎などであった。


酒田の滞在は象潟の三日を挟んで、六月十三日から二十五日に及んでいる。
不玉をはじめとして、道志など土地のおも立った俳人や富豪などと交歓し、かなり楽しくすごすことができた。

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「奥の細道」蜑の家や戸板を敷きて夕涼  (秋田県象潟)

2024年08月30日 | 旅と文学(奥の細道)

古代から昭和40年頃までの日本の夏は、国民ほぼ全員が夕涼みを楽しんでいた。
子どもとっては寝る前の楽しいひとときだった。
町の人は通りに縁台を出し、田舎の人は庭に涼み台を出し、それに座るだけ。
という単純な娯楽。

漁町の人は夕方から、翌日の天気を予想しながら海風にあたっていた。
象潟の人は”戸板を敷きて”の夕涼み。
どんな夕涼みもなつかしく感じるほどに、日本の夏から消えてゆく。

 

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島  
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

夜、宿に戻ったところへ、名主の今野又左衛門が訪ねて来て、
「この土地のいわれを書いた『象潟縁起』というものが伝わっていたのですが、
いつの間にかそれが 紛失して困っております。
ここへおいで下さった記念に、象潟の縁起をお書きいただきたいのですが」ということであった。
芭蕉は、「皆さんからお話をうかがって、できたら纏めて御覧に入れましょう」と応諾した。


美濃の国の商人宮部弥三郎という者が、芭蕉の来遊を知って、酒田から追いかけて来た。
俳号を低耳といい、言水の流れを汲む俳人であったが、生業は諸国を廻り歩く旅商人であった。
元禄元年(一六八八)、芭蕉が長良川の鵜飼見物をした時に同行したことがあるので、その足跡を慕って来たのである 。 
滞在中芭蕉のお伴をして歩いた。

象潟や蜑の戸を敷く磯涼み  低耳

という句を作ったが、これはのちに、

蜑の家や戸板を敷きて夕涼  低 耳

と改められて、「奥の細道」に採用された。 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行 


低耳とは「随行日記』の十七日の条に「弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々へ随身ス」
とある低耳である。
また二十五日の条に、酒田を発つ芭蕉を船橋まで送った人々の名前に宮部弥三郎とあるのもこの低耳である。

素直なところを賞して芭蕉は『奥の細道』の中に書き加えたのであろう。
蜑(あま)の茅屋には戸板を敷いて磯涼みをやっている、と珍しがった句である。
低耳は美濃長良の人で貞享五年(一六八八) 芭蕉が長良川の鵜飼を見た時からのつき合いであるらしい。
其角の「枯尾花」に、
鵜飼見し川辺も氷る泪哉
と芭蕉の追悼句を詠んでいる。
またまた商用のついでに象潟に行った時芭蕉にめぐり会い、細道に一句を採用された。一期一会の縁である。


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