しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

とうやんの話

2017年03月21日 | 父の話
父の話・2003.8.31
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とうやんの話
(病棟跡に住むとうやんは年の瀬に城見の家々を回り恵みを受けていた)
あそこへ隔離病舎があって、村がしょうたけい番人がいった。
番人を長ぅしとったので、(病舎後も)そこへ住みついた。


茂平の写真屋
(黒船とも写真屋とも呼ばれていた)
夜灯のつーさんが同級生じゃった
大きいええカメラを持つとった。
(母屋の前の)道のほとりに店をもとった。
(自分の)結婚写真もそこに頼んどる。

城見の醤油屋
(大正4年頃の資料に、城見に醤油屋が二軒と載っている)
家で作るのは多いが、売りに出すほど作る人は?

油虫(ゴキブリ)
昔はおりゃあせなんだ。
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ツボキの話

2017年03月21日 | 父の話
父の話・2003.8.31

ツボキの話

便所からツボキへもっていって腐らす。
家のねきなら臭いけえ、たいがい家から離れたところにもっとった。
ウチには新涯へあった。
腐る時分に畑へ使ようた。

注記・ツボキは「肥溜め」または「野壺」が標準語



干しイチジク

白トウガキをうむし小屋へ、練炭と硫黄をいれる。
晩に火をつけて入れると朝には燃えてしもうとる。
7~8段にしてうむす
(次の日から)毎日天日で干す。
晩は重ねて夜はしもうて、朝また干す。
最初はちょっともんで、硬うなるほどよぅもんで。
11月で寒うなってくりゃあ(白い糖ぶんが)つきょうた。


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新聞紙の再利用

2017年03月21日 | 暮らし
新聞の家庭欄に新聞紙の再利用の記事があった。
それによると、掃除や台所で有効利用している。

管理人が子供の頃は・・記憶ぶん・・は下記の利用をしていた。

便所紙
弁当箱を包む
凧の脚
子供の日の兜(折り紙)
桃や枇杷の袋掛け

果物の袋掛けには更に購入していたので、廃品回収に出すことはなかったように思う。
今の新聞とはページ数が1/5程度で少なかった。


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茂平の雑魚

2017年03月21日 | 暮らし

漁師がくれるものは、物々交換とも言えた。

姉の話
2017.1.30

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ママカリ
売り物にならんものを持ってきてくりょうた。
その代表がママカリ。
焼く
唐揚げ
焼いたのを酢漬け
骨ごと食べれておいしかった。

イイダコ
ちーちーか(ちいちいいか)もよう食びょうた。

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茂平の季節行事

2017年03月21日 | 暮らし
姉の話
2017.1.30

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(茂平でもよその家は含まず)

行事

ひなまつり
ない

正月
餅つき

節分
豆をいって
豆まき。

入学卒業記念
なし

端午の節句
鯉のぼりを立てる。
門のところへコロコロまるいのを付けて。
竹竿を天気のいい日に立ちょうた。
風のある日は倒れそうになりょうた。
屋根にショウブを投げたり風呂に入れる。
かしわ餅をつくる。

七夕
竹をどっからかとってきて、それをこよりをくくって飾りょうた。
(夏休みの旧暦の7月7日に)海へ流しょうた。

お盆
灯篭を縁側に吊り下ぎょうた。
水棚を建て、
洗濯の棒にナスビやこをひっかきょうた。
おじいいちゃん(祖父)が
「あそこへ先祖さまが墓から帰ってくる」ようた。
幽霊が帰ってくる思ようた。
ナスや提灯目指して帰ってくるんかなあ思ようた。

彼岸
お盆が過ぎて、すぐ彼岸になりょうた。
彼岸の餅みたなものを、黄な粉をまぶしてお母さんがつくりょうた。
仏に祀りょうた。

重陽の節句
しらん。

七五三
してない

クリスマス
寝とったらお母さんが茶色の袋にお菓子を少し入れて置いてくりょうた。
起きてこっそり見ようた。
よその家にしているので、うちにもと思い小さな袋を折ってから入りょうた。
可哀そうななあ思ようた。

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家族の誕生会
なし

結婚記念日
なし

七五三
してない

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日比遊郭 ②「日和申し」

2017年03月21日 | 江戸~明治
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「玉野市史」より転記する。
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当時の廻船業は船主が船長であるという例が多く、自分の船に自分が乗って、自分の資金で諸国の物産を買付けて商売するもので、運賃積という分業はそれほど発展していなかった。
北前船もそうであるし、廻船業者もほとんどが船主船長で商売をしており、数隻の船を持った者は身内か、信用ある雇い船長にまかすが、積み荷は自分の商品であった。
つまり船長は船主であり、荷主であり、商人であった。
したがって金づかいも荒く、町に落ちる金も相当なものであったという。

2~3日もしけが続くと、日比港の西側の山の丸山という広場で海の静まるのを祈り、そこで各船対抗の角力や力くらべをやり、芸者を集めて飲めや唄えの大さわぎをやる。
これを「日和申し」といって、日比港の名物であったと伝えられている。

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日比遊郭 ①ひと潮

2017年03月21日 | 江戸~明治
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「玉野市史」より転記する。
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瀬戸内海の、東西のみちひきする潮の分かれ目が、笠岡市の沖合である。
そこで「ひと潮」といわれる周期の約6時間を、日比港を起点として潮流にのって西に航海すると、満ち潮にのって走ると笠岡の沖合でひき潮に変わる。そのまま引き潮ににのると広島県大崎の木江港、御手洗港まで一気に走るのである。

潮待に寄港する船は多く、煙草屋、風呂屋、船具屋、米屋、荒物屋、油屋、塩みそ醤油かの商家をはじめ、茶屋料理屋などの花街も繁盛したのである。

岡山県では明治10年、貸座敷の営業できる所を指定している。
備前国 
上道郡 岡山西東中島町、九ばん村、西大寺村。
御野郡 福島村
児島郡 下津井村 吹上村 田ノ口村 日比村 山村
以下略
これらは、すでに江戸時代から花柳街として発展してきた場所ばかりであるが、日比港の新地が遊郭というかたちを整えて繁盛しはじめたのはこの頃のことであろう。

海が荒れて、上り下りの船が溜まると日比の町はたいへんなにぎわいである。
何百人もの船乗りが一度に上陸すると、まず繁盛するのが風呂屋であり料理屋であり花柳街であった。

この頃、日比港の花柳街の資料を紹介しておく。
この資料は日比村の娼妓の数を記録したものの残欠である。
明治
13年 30.人
14年 45人
15年 19人
16年 25人
17年 31人

またこれとは別に、明治31年から書かれた岡山駆梅院日比分院の日誌というのがある。
この「岡山駆梅院」というのは、娼妓に対し性病の検査、予防、治療などを専門とする病院で、日程を決めて医師が検診にきていた。
この日誌は、その都度立会する駐在所の巡査が記録したものであるが、だいたい60~70人程度の人数が記録されている。
性病に対する厳しい予防体制と、日比港のようすを想像することができるのである。

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