しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

青春歌謡映画は楽しい「絶唱」

2023年02月24日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和41年日活映画「絶唱」

 

 

 

 

 

 

 

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青春歌謡映画は楽しい「あの雲に歌おう」

2023年02月17日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和40年正月映画・東映「あの雲に歌おう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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青春歌謡映画は楽しい「北国の街」

2023年02月12日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和40年日活映画「北国の街」

 

 

 

 

 

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青春歌謡映画は楽しい「君たちがいて僕がいた」

2023年02月12日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和39年東映映画「君たちがいて僕がいた」

 

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♪ああ岡山の灯よいつまでも

2022年08月24日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

たしか高校一年生の時で、6月の頃だった。
笠岡の大和座で”新川二朗ショー”があった。
その日は、授業中にそのことが気になって、今ごろ歌っているのだろうな、と気持ちは大和座にいっていた。
高校一年生の自分が、授業を受けずに学校休み、
お金を払って歌謡ショーを見ることなんか、まったくの想像外のことだった。
高校は、木造校舎の古い二階建の55人学級の時代だった。

 

 

その時から10年ほど経った。
岡山市民会館で”新川二朗ショー”があった。
既に社会人であったし、夕方の時間だったので、職場に気兼ねなく、即チケットを買った。
じつは、その歌謡ショーは”新川二朗ショー”ではなくて、
”西川峰子&新川二朗歌謡ショー”で、残念ながら西川峰子の名が先にあった。

客席はほぼ満員で、
西川峰子は「峰子のマドロスさん」などを歌った。
その後で、”新川二朗ショー”は始まった。

 

新川二朗は次々にヒット曲を歌った。
あのねちっこい声で。

「指切りの街」 そのひとみ そのひとみ 僕のもの 僕のもの 
「望郷」 この道は ふるさとへ ふるさとへ 続く道 
「君を慕いて」 あの女(ひと)の 花の唇 あの時の 濡れた瞳よ
「真赤な地平線」 呼んでみようよ 呼んでみようよ 

そしてフィナーレとなった。
最期は全員感涙の中で「ああ東京の灯よいつまでも」を歌った。
最期の最期は、
♪ああ岡山の灯よいつまでも
で幕となった。

・・・・

 

新川二朗は2022年8月21日、82才で亡くなった。
実際よりも3才、年齢をサバ読んでいたそうだ。
なお、岡山市民会館は千日前に移転するので、今年(2022年)が見納めになる。

 

 

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奈良光枝のこと

2022年04月27日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
二十歳前後の頃、テレビ東京系の懐メロに奈良光枝が出ていた。
それをいっしょに見ていた母は、
「奈良光枝はそりゃあ美人じゃった」と見たことでもあるように話した。
たしかに、テレビに映る奈良光枝は飛び切りの美人だった。
・・・・
藤原正彦先生の”あこがれの人”への思いは、
ほぼ私たちの世代も似たようなもので、先生の思いは非常によくわかる。

・・・・



・・・・・

奈良光枝のこと


「始末に困る人」 藤原正彦  新潮社 平成23年発行


昭和21年に「或る夜の接吻」という映画が封切られた。
日本初の接吻映画と宣伝されたが、私がよく見たところ主演の若原雅夫と奈良光枝は接吻していない。
接吻をほのめかしているが絶対にしていないはずだ。
私の奈良光枝は清純無垢でそんなふしだらをするような人間ではないのだ。
私などとは根本的かつ本質的に違うのだ。


奈良光枝を初めてテレビで見たのは高校一年の時と思う。
三十代後半だった彼女の余りの美貌と清楚には真に誠に本当にたまげた。
彼女を見てたまげない人は視力か感受性に問題のある人だけだ。
これほど美しい女性を見たことはそれ以前も以降も一度もない。
こんな人はもう二度とこの世に生まれないとさえ思った。


「悲しき竹笛」は「或る夜の接吻」というけしからん題名の映画の主題歌と知ったのはかなり後だった。
彼女の歌には他にも「雨の夜汽車」「青い山脈」「赤い靴のタンゴ」などの傑作がある。
レコードもテープもCDも持っている。
彼女を思わない日はほとんどなく、その故郷である弘前は聖地になった。


彼女は佳人薄命の通り五十三歳で亡くなった。
青山斎場で行われた葬儀はあいにく講義と重なった。
前々日から休講にしようか悩みに悩んだ。
結論が出ず、父に相談した。
「バカモン、公務優先に決まっとる」と一喝され、私の青春は終わった。
翌々年、奈良光枝のことを「誰、それ」と言った非国民のような小娘と結婚した。

(2011年6月16日号)




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「砂に消えた涙」

2022年03月17日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「砂に消えた涙」は、なにか乙女ごころを上手く表現しているなと高校生の時に思った。
曲も感傷ムードがある洋楽で、歌唱力に定評があった弘田三枝子が歌いヒットした。

・・・・・




砂に消えた涙 訳詞・漣健二

青い月の光を浴びながら
私は砂の中に
愛の形見をみんなうずめて泣いたの
ひとりっきりで ア、ア、ア、
あなたが私にくれた
愛の手紙 恋の日記
それのひとつひとつのものが
いつわりのプレゼント
白い波の打ちよせる海辺で
私は砂の中に
恋の想い出みんなうずめて
泣いたの ひとりっきりで


・・・・・・

飯田久彦(チャコちゃん)や坂本九(キュウちゃん)や弘田三枝子(パンチのミコ)の歌う歌の詞は、そのほとんどが漣健二だった。
洋楽は漣健二がいないと成り立たない、と思えるほど有名な訳詞家だった。
洋楽を聴く初め頃、森山佳代子の「月影のナポリ」という曲があった。
まだ小学生だったが、リズムやテンポはいいが歌詞はでたらめなような気がした。

訳詞家は直訳ではなく、実際はどんな感じで訳すのだろう?
数々の訳詞で知られるなかにし礼氏から転用した。

・・・・・・

「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

(シャンソンとの出会いは)
18歳後半でした。食うや食わずでアルバイトのシャンソン喫茶「ジロー」のボーイでした。
シャンソンを日本の歌手が歌って、へぇー、日本語の歌詩があるんだと知るわけです。
フランス文学が好きだったからフランス語の基礎勉強はしていた。
そんな時、石井晶子というシャンソン歌手から「あんた訳詩やってみない」と言われました。
当時店の時給は23円でした。
訳詩をやって石井さんがくれたのは一曲五百円。
石井さんが僕の訳したシャンソンを歌って、僕のところに注文がくるようになった。

(「なかにし礼」の誕生ですね)
異常なほど売れたんですよ。
一曲千円になり、月に七十曲のときもありました。
自力で大学を卒業できた。
日本語のアクセントを壊さずに向こうの歌にのせて、原詩の意味と哲学を殺さずにやっていくといのうは、難しいけれど面白いわけね。
小さな歓喜が積みあがって大きな歓喜に至るという体験を毎晩味わっていました。

(裕次郎との出会い)
僕は訳詩がフランス文学の流れを汲んでいてインテリジェンスにみちた仕事だと思っていて、歌謡曲を書くなんて考えもしかった。
まったくの偶然で、ホテルで裕さんに会い「なんで日本の流行歌を書かないのよ」と。
裕さんの映画「太平洋ひとりぼっち」に「王将」を歌うシーンをみて、
歌謡曲というのも状況により人の心にしみるんだなあと感じ、
日本人の心を動かしてみようじゃないか。
僕が書いた歌が売れて本当にうれしかった。


・・・・・



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何度問われても「わっはっは」しか答えないラジオの野球解説者

2022年03月07日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
スポーツのラジオ実況放送は子どもの時から今日まで聴いている。
回数の多い順に、
大相撲・・・NHK・相撲以上に志村正順アナの名調子が楽しみだった。
プロ野球・・NHK・ラジオ山陽・ラジオ中国。今はテレビが多い。
高校野球・・県予選や甲子園を聴いていた。
プロボクシング・・海老原博幸選手の試合。
水泳・・ローマ五輪での山中vsローズやコンラッズ選手。

今でも強い記憶になっているのが、ラジオ中国の金山次郎さんの解説。
解説者というより100%カープ応援へ特化した解説。露骨なカープ贔屓が面白かった。
地域限定放送は、そういう解説でいいと思う。




極めつけは、
何度問われても「わっはっは」しか答えない野球解説者。
この時は聴いていて面白かった。
笑った。
今でも、なにかの拍子に思い出して一人で笑っている。


1986(昭和61)年10月27日 プロ野球日本シリーズ・広島vs西武第5戦 NHKラジオ

勤務中、カーラジオで試合を聴いていた。
広島がリードした場面で、西武が攻撃中。
バッターボックスには3番・秋山(4番は新人の清原)。

その途中、球場の大歓声があがり、アナウンサーの声が聞こえなくなった。
なにがあったんだろう?
「わぁわぁわぁ・・・・・」の歓声の間から、
どうも秋山がホームランを打ったらしいようだった。
しかし、それだけでもない感じで・・・・。
アナウンサー氏「川上さん打ちましたねえ」
解説の川上哲治さん「わっはっは」
アナ氏「起死回生のホームランですよ」
川上さん「わっはっは」
アナ氏「バック転ですよ、川上さん」
川上さん「わっはっは」
アナ氏「どう思われますか、川上さん」
川上さん「わっはっは」
アナ氏「川上さんと同じ、熊本の出身ですよ」
川上さん「わっはっは」
アナ氏「川上さん!」
川上さん「わっはっは」
こんなやりとりが何回か繰り返された。
執拗にも思えるアナ氏と、
返答に困り上げる川上さん、この二人のやりとりは
聴く方にとっては・・・笑うしかないほど・・・面白かった。





川上さんは、どのように返したのがよいのか困っていたが、
後年雑誌によると、打った秋山も苦渋(といっていいのか)の決断だったと語っている。
ベンチがお通夜ムードで、雰囲気を変えたかったことに加え、
清原が入団しスター誕生、今度は自分も存在感をアピールしたいと思っていたこと。
森監督はどう感じるか?心配で、ホームラン後の3塁コーチに許可を得たなどがあった。

今も時にスポーツ誌を飾り、語り継がれている秋山のバック転だが、
自分にとっては、
笑えて、解説者に同情もして、おもしろい記憶に残るラジオ放送だった。


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「小島通いの郵便船」

2022年03月06日 | 昭和の歌・映画・ドラマ



青木光一にはいい歌が多い。
「早く帰ってコ」
「柿の木坂の家」そして、
「小島通いの郵便船」。


・・・


笠岡湾や瀬戸内海にはいつも大小の船が見えていたが、その中でも笠岡港から出た船にはあこがれがあった。
一度乗ってみたい。
いつも思っていたが、それは夢にすぎなかった。







海をへだてた 二つのこころ
思い通わす 便り船
いとしあの娘も ミカンの木陰
待っているだろ 小島通いの 小島通いの
郵便船

「小島通いの郵便船」 作詞・上尾美代志 作曲・平川英夫






たぶん明治時代に郵便制度が始まったころは、郵便船は郵便物しか積んでいなかっのだろう。
島の人々は、島で自給自足の生活ができてたいが、次第に町に行くことも増え、
郵便船に便乗するようになってきたのが、三洋汽船の前身だろう。

今も飛島(ひしま)の人は三洋汽船の旅客船を”郵便船”と呼ぶそうだ。





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画像はすべて、笠岡市飛島にて

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天長節

2022年02月25日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
明治維新後5人の天皇がいる。
明治天皇、
大正天皇、
昭和天皇、
平成天皇、
令和天皇。
5人の天皇誕生日のうち、
明治天皇と昭和天皇は、日本の四季のなかで、いちばんいい季節に生まれたから、
今も祝日として残っている。←これは個人見解。

特に平成天皇の祝日には少し困った。
12月23日はXマス、月末、年末、年度末で忙しかった。はっきり言って業務に支障・負担があった。
大正天皇のように、祝日を移動してほしい気持ちがあった。

なお、次期の天皇誕生日は5月1日、
その次の天皇誕生日は9月6日。
そのまた次の天皇誕生日は現時点では空白。(男性や、男系とか言っていると)永遠に埋まらないかもしれない。



(アラカン)

・・・・・



「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。


天長節

小学校に入学して初めての式は、4月29日の天長節であった。
この日、校門には、大きな日の丸国旗が交叉して立てられた。
その下をくぐる時、幼い私はいつもと違って晴れがましい気分になった。
友達の顔も、いつもと違って見えた。


「天長節」

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり



式の当日、校庭の一角に建てられた奉安殿の扉がひらかれる。
奉安殿というのは、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語がしまってある小さな蔵で、
建物自体、神社のつくりになっている。
その周囲は柵で囲み、玉砂利を敷き詰め、神聖な区域とされていた。
私が通学していた小学校の場合、奉安殿の位置が校門からかなり離れたところにあったので、登校下校時に最敬礼をするには無理があって、
普通は省略されていた。

その奉安殿から式場まで、勅語を運んでくるのは、教頭先生の役目だった。
教頭先生は、紫のふくさに覆われた教育勅語の箱を黒い漆塗りの盆にのせ、それを頭上高くかかげながら、
しずしずと運動場を横切って講堂まで歩いてくる。
やがて「最敬礼!」
号令がかかって、私たちは頭を深く下げる。
静かに「直れ」の号令がかかり、やっと頭をあげる。

フロックコートの礼装で絹の白手袋をはめた校長先生は、おもむろに紫のふくさをひろげ、
箱から教育勅語をとりだすと、巻物の紐をといてひろげ、押しいただく。
この時、私たちはまた、頭を下げる。
勅語を読み終わるまで、そのままの姿勢でいなくてはならない。
やがて、
「朕惟フニ、・・・・」
と、重々しい奉読の声が聞こえてくる。--というよりは、頭の上におりてくる。
何しろ、神主が祝詞をあげるときのような荘重な節回しで読まれるので、
子どもにとっては、耐え難く長い時間に思われた。
やっと終わって、元の姿勢に戻る時、あちこちから鼻水をすすりあげる音がおこる。
まわりはほっとした空気につつまれる。

新校長は、緊張のあまり手がふるえ、声がうわずる。
明治天皇のお言葉を代読することになるわけで、緊張するのも無理はなかった。

やがて、意味はわからぬまま、部分部分を暗記するようになった。


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