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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

立ち上がる遊女たち

2017年06月28日 | 大正
前借金、花柳病、外出規制、
国家が認めた遊廓も、女性にとっては奴隷と呼んでもおかしくない境遇だった。

「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊より転記する
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リンカーンに学び立ち上がる遊女たち

大正12年(1923)7月23日の昼前、着飾った女性5名が県庁を訪ね、知事への陳情書を差し出した。
西中島遊廓の娼妓たちで、高松稲荷に参詣するといって外出許可をもらってきたという。
次の要望事項は西中島の遊女全員の支持を得たものなのでご配慮願いたい。

1・外出散歩に警察の取締りを撤廃してほしい。(東警察署は本年6月以降、外出は月一回興行見物、二回神詣りの他は許さずの通達を出している)
2・婦人病を花柳病同様県費で治療してほしい。男子に与えられた婦人病の治療費を、公娼制を容認する貴官に要求する。
3・婦人病による休業は年期延長の理由とせぬよう、楼主を規制してほしい。

警察部長は、今回の陳情は当然のことで大いに同情すると談話を発表する。
報道されるや全国から彼女たちを激励する電報や手紙が殺到し、世論は彼女たちを支持し始め、楼主も無視できなくなった。
しかしどれほど受け入れられたかは、残念ながらわかっていない。

岡山県では明治10年、「貸座敷並娼妓規制」が施行され、県下24カ所で遊廓の営業が認められ、のち14カ所に整理された。これは昭和33年の売春防止法施行までつづいた。



ccccccccccccccccccccccccccccc
追記・
昭和8年に外出は自由になった。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
sssssssssssssssssssssssssssss

昭和8年(1933)年5月20日
内務省は娼妓の外出制限の項の全削除を決定した。
これにより、いちいち警察に届けて外出許可をもらわなければ外出できなかった娼妓たちの外出が一応自由になった。
内務省は娼妓の服装行動への監督矯正を強め、外出態度や取締りを注意した。
彼女たちの現実は、いままで同様に警察と楼主の監視の目にされた外出自由でしかなかった。
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浜街道・七隠

2017年01月26日 | 大正
今の国道2号線で、岡山~倉敷~福山間はかつて「浜街道」とか「鴨方往来」と呼ばれ、矢掛や神辺を通る山陽道の格下だった。
しかも、荷車さえ通ることができない道幅で、(大門~用之江間)大正4年にやっと車馬が通れる道となった。

大正9年河口池南側を通る新道ができて一等道からの役目を終えた。

街道沿いの婦人から聞いた。2017.1.25

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萱の陰に隠れて、おいはぎや、どろぼうが出ていたそうです。
六部の人のが行き倒れて、その大きな墓もあります。

この上の方に明智山城の跡があります。今は荒れてますが、ひらべったくなり
壺や屋根の欠片が出てきたそうです。

主人のお父さんは、陸軍の野砲が通りょうたのを何度もようりました。
主人が言うのは、その頃の道は、道から左右にはみ出しても問題ないから通りょお。

藁を積んだ荷車が通ったり、人がにぎやかに通っていたようです。

わたしんちは、屋号を「おうかん屋」といいます。
そういう意味がじゃあないんかなあと思います。


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参考①福山市引野町史

大正4年には、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
車馬の通れる幅に拡張されてた。

大正8年「道路法」が制定された。
これに伴い福山より引野、大門を経て笠岡に通じる道が県道に認定された。

昭和4年、第二国道に昇格した。これによって従来の県道尾道・井原線となった。


参考②「大津野のあゆみ」

大正9年、旧国道2号線が大門を貫通する。
以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。

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大正時代の城見村②工業・漁業

2017年01月22日 | 大正
大正時代の城見村のようすを転記する。

今と違い、ずばずばとストレートに記述している。
漁業では、明治17年に堤防決壊がいかに大事故であったのかを彷彿させる。
行商業は、誰が何処に何を売りに行っていたのだろう?


小田郡史(大正13年版)の城見村史より


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工業

農村なるが故、甚だ振るわす。
独り農業の副業として麦稈製造、陶器、瓦、曹達等の製造あり。



麦稈及び真田紐製造
麦稈原料 2100貫 真田紐20.000反

陶器
大字茂平字阿浜海辺にあり、明治40年4月15日吉備郡岡田村水川豊太郎ほか2名が合資組織を成立し、吉備製陶合資会社を設立。
大正4年の産額は家具2.800円、其他300円。

瓦製造
大正4年本村の瓦製造戸数は三戸にして職工7人なり。数量38.000個、570円に及べり。

曹達製造
一戸にして職工一人なり。

商業
本村の商業極めて振わず。左記の小商を算するのみ。
物品販売者3人、問屋業9人、行商業20人、外国税営業者1人

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水産業

往昔より副業的に営み来たり。明治初年頃より17年頃までは打瀬網漁業を農業の副業として経営し来たりしも明治17年海嘯(津波)により漁船の破壊と共に漸次衰退に趣く。
明治36年茂平漁業組合を設立し今日に至れるも水産物の減少し、浜村と目すべき価値なし。
組合員16人、専業5戸、兼業6戸。壺網従業者9人、打瀬網従業者4人、投網従業者1人なり。


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大正時代の城見村①生業

2017年01月22日 | 大正
大正時代の城見村のようすを転記する。

小田郡史(大正13年版)の城見村史より

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生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町


主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

特用作物
除虫菊は松浦岩蔵氏、明治25年東京学農社より種子購入栽培せし。

蚕業
明治22.23年頃より創起し、明治30年頃飼育せるもの10余戸を算せしが、麦稈青刈製造の勃興するにおよび跡を絶つに至れしが、やや養蚕に心を傾けんとする傾向あり。

家畜
牧畜は単に牛に止まり、農耕に供する為飼育するもの大部分。
家禽はほとんど鶏にして種類は多く、往昔より副業的に飼育し来たれり。

果樹園芸
本村の果樹栽培は殆ど大字茂平に属す。
大栽培に従事するものなし。

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【大正6年】宇野遊郭設置問題再燃

2017年01月15日 | 大正
戦後、工場誘致や大学誘致を地方は競ってきたが
戦前は、軍隊と遊郭の設置を競っていたようだ。

これは、大正時代の宇野のお話。

「岡山県史・政治社会」より転記

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宇野遊郭設置問題再燃   大正6年7月12日・山陽新報

備前宇野港の遊郭設置問題は多年の懸案にして、
大正元年港民50余名連署し県知事に請願書を提出し、その後村当局者よりも遊郭設立を必要を認め、稟請したるも気運至らず、今日まで許可を得ず。
近来同地の発展とともに又もや同問題起こり、宇野港同盟会にて総代2名にて県庁に出頭し、知事・警察部長に面接し遊郭設置の必要を迫り、公娼設置の許可を懇願することに決した。


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【大正6年】神島の密淫売

2017年01月15日 | 大正
神島外浦は工場景気にわき、警察に「ゴヤッカイ」になる人も増えていった。


「岡山県史・政治社会」より転記

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挙げられた売春婦  大正6年2月2日・山陽新報

岡山県下に昨年中検挙された密淫売は148人で、前年より97人増している。
これは神島亜鉛工場が出来たため笠岡署のゴ厄介になったものが増した訳で、他には余りたいしたことはない。
10人以上を検挙した署は、岡山・笠岡・水上・味野位なものだ。
検挙された淫売婦は検診の結果半分は梅毒患者なることが判った。

中には芸妓も大分加わっている訳で、検査問題が持上るも無理ならぬ。
けれども娼妓の如く省令が出る訳でなし、強制的にはいかぬ。


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大正時代の城見村の就労者

2017年01月13日 | 大正
小田郡の村では農業が軒並み80%台。
笠岡町が21%で、その以下の町村は小田・後月郡内に3村ある。真鍋、北木島、神島外村。
城見村の80%台は昭和30代までつづいたと思える。


「井原市史紀要 井原の歴史第3号」より転記する。

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小田郡・後月郡別本業者大分類表 大正9年(1920)

城見村・男  小田郡男平均   城見村・女  小田郡女平均

農業  81.7  57.0    87.6   73.69
水産業  1.1  5.4     0.2   0.1
鉱業  0.6  2.3     0   0.03
工業  6.2  13.9     8.6   15.6
商業  3.7  9.0     1.9   5.7
交通業  1.4  4.8     0.2  0.3
公務自由業  4.1  4.4    1.1   1.7
その他  0.6  0.6      --  --
家事使用人  0  0.01     --  --
無職              0.4  2.2
計   699  24.700    475  18.488


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大正時代の初等教育

2017年01月04日 | 大正
戦前の学校体系は複雑でわかりにくい。
管理人の小学生の時、親(←親は父親を意味していた)の学歴欄は校名なしで「高小」と書く人が大半だった。

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下記は「福山市引野町学校教育史」より転記する。



学校体系が初等教育の上に、複線的中等・高等教育が乗っている。
すなわち、中学校の系統が大学までつながっているのに対し、高等小学校が実業学校若しくは師範学校へ通じている以外は行き止まりの「袋小路」体系であった。

帝国主義段階にはいった日本の資本主義にとって忠良なる臣民と良質なる年少労働者はいよいよ必要であり、反面国民の側でもより高い教育要求があり、義務教育終了後の国民教育の在り方が大きな問題となってきた。

義務教育年限の二か年延長案は時期尚早として採択されなかったが、高等小学校への就学者は年々増加し、ほぼ一般的国民教育の段階に達した。

大正15年「小学校令施行規則」の改正が行われ、女児に対しては、裁縫のほか家事を必修させることになった。
児童の大部分が高等小学校卒業後実務に就くことを想定しての改定であった。


実業補習教育の充実

義務教育卒業者に対する簡易な実業教育機関としての実業補習学校は、明治時代末期に著しく普及し大正初年には各村にほとんど一校の補習学校が設置された。
しかしその内容を見ると、授業日数、教育内容など極めて貧弱であり、まさに「小学校教育の補習」的なものにすぎなかった。





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城見村の職業大分類別構成 大正9年(1920)

2015年07月17日 | 大正
大正時代の城見の職業。小田郡の他の村と比べると、ほぼ内訳は同じ。特色なし。


以下
--井原市史紀要--井原の歴史 第3号より

城見村構成(%)男+女

農業 81.7+87.6
水産業 1.1+0.2
鉱業 0.6+0
工業 6.2+8.6
商業 3.7+1.9
交通業 1.4+0.2
公務自由業 4.1+1.1
その他有業者 0.6+0
家事 0+0
無職 0.6+0.4

総数699+475人


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新川の工事

2014年12月14日 | 大正
大正12年新川が完成した。

父の話


新川で工事をしょうたのは覚えとる。
子供じゃった。子供じゃ。
新しゅうつけた。それまでは新川は無かった。
それまでは、高うなっとる、観音堂の畑がある、ゆきちゃんかたの水門のところに、(大池の水が)池の水がいきようたんじゃ。
はたがいちから出た水やこで切れ取った。
切れたりしたら、沼りょうたんじゃ。

土手が砂が出るんで、ねじりあぎようてけれるんじゃ。それでまっすぐうにした。まっすぐうにしたら切れん。

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