ウェブで池田晶子さんの『41歳からの哲学』を評しているサイト(http://charm.at.webry.info/200507/article_8.html)を発見しましたので、紹介します。
書評について気になるところを引用しますと、「書き手は、主観的感情と哲学的思索を社会一般の常識に対して圧倒的に優位におく・・池田晶子女史です。・・書かれている内容の真偽や妥当性を冷静に分析して批判するような読み方は全く似合わない。また、哲学に関する正統的な知識や社会的な倫理観をもってこのエッセイ群を論駁しようと思えば簡単に出来るのです。・・大半が独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイなのですから、はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していないでしょう。」
うーむ正直言って、「哲学に関する正統的な知識」を持ち合わせない私ではありますが、池田さんの文について「論駁しようと思えば簡単にできる」との認識を私はなかなか持ちえません。もちろん池田さんは反論を封じるつもりなどさらさらないでしょうが。
しかし、「独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイ」というのは確かにそう言っても間違いではないですが、「はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していない」というのは、池田さん自身の認識とは逆ではないかと思います。
おそらく池田さんは主観的思弁(のようでありながら)=客観的思弁として語っていると思います。つまり、誰が考えてもこうなるはずである、と考えられるところのものを、です。決して相対的ではなく、絶対的な言葉として。それが主観的なのだ、と言われればそれまでですが。
書評について気になるところを引用しますと、「書き手は、主観的感情と哲学的思索を社会一般の常識に対して圧倒的に優位におく・・池田晶子女史です。・・書かれている内容の真偽や妥当性を冷静に分析して批判するような読み方は全く似合わない。また、哲学に関する正統的な知識や社会的な倫理観をもってこのエッセイ群を論駁しようと思えば簡単に出来るのです。・・大半が独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイなのですから、はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していないでしょう。」
うーむ正直言って、「哲学に関する正統的な知識」を持ち合わせない私ではありますが、池田さんの文について「論駁しようと思えば簡単にできる」との認識を私はなかなか持ちえません。もちろん池田さんは反論を封じるつもりなどさらさらないでしょうが。
しかし、「独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイ」というのは確かにそう言っても間違いではないですが、「はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していない」というのは、池田さん自身の認識とは逆ではないかと思います。
おそらく池田さんは主観的思弁(のようでありながら)=客観的思弁として語っていると思います。つまり、誰が考えてもこうなるはずである、と考えられるところのものを、です。決して相対的ではなく、絶対的な言葉として。それが主観的なのだ、と言われればそれまでですが。