哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

残酷な真実

2010-12-01 01:47:48 | 
 前回はカバーの宣伝文句を批判したが、気を取り直して、お薦めの『残酷人生論』から、池田晶子さんらしさがあふれる文章を少し引用してみよう。最初は、前々回引用した文章の少し後にある文章である。


「真実を知ることを残酷だと言えるためには、人は、知られる真実が残酷であるかどうかを、先に知っていなければならないのではなかったか。」(「プロローグ-疑え」より)


 真実を知る=考えることが残酷だということを、なぜか我々は先に知っていることになるという、論理的に明らかな、しかし通常は認識していない、意味構造の逆転が指摘される。このような意味構造の逆転は、池田晶子さんの著作には随所に見られるし、我々は直観的に本質的な指摘だと気づく。同じ『残酷人生論』の中の別の文章を引用しよう。


「「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う我々は、その限り、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。知っているからこそ、その理由を問うのである。しかし、理由はないのだった。ということは、問うこと自体が、その理由なのである。」(「なぜ人を殺してはいけないのか」より)


 これを読んで、はぐらかされたと思うだろうか。問うこと自体がその理由だというのは、最初に引用したように、知られる事実が残酷であることを先に知っているのと、同じ構造にある。ここのところをもう少し説明している文章を引用しよう。


「人の世の、「なぜ悪い」をめぐるあらゆる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからだ。道徳を倫理だと思っているからだ。しかし、道徳は強制だが、倫理は自由である。・・・じっさい素朴に感じるだけでも、「何を為すか」という内容が、「どのようであるか」という形式よりも本質的であるとは感じられないではないか。ウソものの人間だからこそ、行為による粉飾の必要を自覚するのだろう。」(「善悪は自分の精神にある」より)


 最後の文章は、世の多くの人にとって辛らつな指摘である。ボランティアとか金銭寄付などの慈善行為は、確かに善い行為だろう。しかし、そのような“善い行為”によってだけでは、決して倫理的な“善人”とはいえない。悪人だって、慈善行為はできるからだ。では、そもそも善悪とは何か。我々は善悪をどのように知っているのか。そもそも善悪とは何かと問う以前に、“善”“悪”を我々は知っているからこそ問うているのではないか。

 内容によって形式は問えない。残酷な真実への一歩です。