哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年12月9日号)

2014-11-30 16:55:22 | 
今回の書評対象は、『おまけの人生』(本川達雄著、阪急コミュニケーションズ)という、生物学者によるエッセイ集だという。この生物学者は、かなり面白い人柄らしく、池田さんも何度も笑ってしまったという。

もちろん池田さんは、笑うほど面白いからこの本を取り上げたのではない。著者が科学的世界観を絶対とせず、世界を理解するためのあくまでも道具と捉えているからであり、それを示すものとして「道元の時間」を池田さんは取り上げている。生物学の視点で『正法眼蔵』を読むというのだ。

道元の時間論として取り上げている訳文は、以下の通りである。

「私を並べて全世界とし、この全世界にある人々や物々をそれぞれの時間だとみなすべきである」

池田さんは、これを物理学的世界観で理解するのは不可能であるとする一方で、「悟った」人間には、時間すなわち存在とはこのようなものではないか、としている。そして、「科学」は「世界」の理解に貢献したかもしれないが、「自分」もしくは「自分の人生」を理解するためにはほとんど無力である、と述べる。そして、著者によれば、人間の老いの時間は生物学的には「おまけの人生」だから、だからこそ「尽力経歴」しようではないか、と池田さんは結ぶ。


確かに、池田さんの言う通り、物理学的世界観と生物学的世界観は随分違うのだろう。生物学者といえば、何かと文章に接するのが多いのは、福岡伸一氏だ。今日の新聞コラムでも読んだのだが、生物は「変わらないために変わる」という。全体として生命を維持するために少しづつ更新する、つまりは細胞が死んで入れ替わることにより全体を維持する、というバランスの上に生命が維持されているというのだ。このような生物学的考えをおろそかにした顛末をこのコラムでは述べているのだが、池田さんの考えにもこのような生物学的考えの親和性は高いのだろうか。