Nobodyの、何者でもない自分とは、もしかして“宇宙”のことであったか、と思う文章がある。
「深海の魚は眼をもたないという事実を考えてみたい。彼らが眼をもたないのは、そこに光がないからで、光があるところに生存する魚は、眼をもっている。光があるから、光を見ようと、眼ができたのであって、その逆ではない。そもそもそこにないものについて、器官は発達のしようがない。
他のすべての器官についても、そのようにして発達したと考えることができよう。
それなら、脳だって、そう考えるべきではなかろうか。光があるから眼ができたように、考えが在るから脳ができたと、こう考えるべきではなかろうか。そもそも先に考えが在るのでなければ、脳など発達しようもなかったはずではないのか。
明らかに考えのほうが、先なのである。「考えが物質をつくった」のである。宇宙とは、先に物質なのではなく、常に既に存在する「考え」なのである。
これを裏から言えば、宇宙が脳を「必要とした」、ということだ。宇宙が自分を考えるために、人間の脳を必要としたということだ。もっと言うと、宇宙について考えているのは、もはやわれわれの「脳」ではないということである。
ところで、すると、この場合、「われわれ」と言っているのは、誰なのか。いったい、何が何について何をしていることになるのか。」(『考える日々』より)
上の論理の前提には、進化論の考え方があり、その考え方は現代の我々のパラダイムにおいては、しっくりくる内容である。そしてそれを前提にすれば、確かに池田さんの指摘のようになる。
考えが在るから脳ができた、とは本当に至極もっともである。光や音や酸素のように、物質的なものに対して器官が発達した、というのはわかりやすいが、考えがあるから脳ができたというのは、思いつきにくいが言われれば確かにそうである。ただ、池田さんは「進化論的には」と前提を置いて話しを進めているので、唯脳論の養老さんの「脳ということにすれば」のごとく、「進化論を前提にすれば」というような留保的な意味合いであることも念頭においていた方がいいだろう。
とはいえ、池田さんのこの文章は、考えというものが、一人一人の脳の中で完結する狭い存在でなく、大きく宇宙へと拡がるものであることを実感できるのである。
「深海の魚は眼をもたないという事実を考えてみたい。彼らが眼をもたないのは、そこに光がないからで、光があるところに生存する魚は、眼をもっている。光があるから、光を見ようと、眼ができたのであって、その逆ではない。そもそもそこにないものについて、器官は発達のしようがない。
他のすべての器官についても、そのようにして発達したと考えることができよう。
それなら、脳だって、そう考えるべきではなかろうか。光があるから眼ができたように、考えが在るから脳ができたと、こう考えるべきではなかろうか。そもそも先に考えが在るのでなければ、脳など発達しようもなかったはずではないのか。
明らかに考えのほうが、先なのである。「考えが物質をつくった」のである。宇宙とは、先に物質なのではなく、常に既に存在する「考え」なのである。
これを裏から言えば、宇宙が脳を「必要とした」、ということだ。宇宙が自分を考えるために、人間の脳を必要としたということだ。もっと言うと、宇宙について考えているのは、もはやわれわれの「脳」ではないということである。
ところで、すると、この場合、「われわれ」と言っているのは、誰なのか。いったい、何が何について何をしていることになるのか。」(『考える日々』より)
上の論理の前提には、進化論の考え方があり、その考え方は現代の我々のパラダイムにおいては、しっくりくる内容である。そしてそれを前提にすれば、確かに池田さんの指摘のようになる。
考えが在るから脳ができた、とは本当に至極もっともである。光や音や酸素のように、物質的なものに対して器官が発達した、というのはわかりやすいが、考えがあるから脳ができたというのは、思いつきにくいが言われれば確かにそうである。ただ、池田さんは「進化論的には」と前提を置いて話しを進めているので、唯脳論の養老さんの「脳ということにすれば」のごとく、「進化論を前提にすれば」というような留保的な意味合いであることも念頭においていた方がいいだろう。
とはいえ、池田さんのこの文章は、考えというものが、一人一人の脳の中で完結する狭い存在でなく、大きく宇宙へと拡がるものであることを実感できるのである。