哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年5月20日)

2013-10-06 15:52:40 | 
今回の書評対象は『私にとってオウムとは何だったのか』という、オウム真理教事件で死刑判決を受けた元教団幹部の手記だそうである。池田晶子さんは、オウム真理教に関する疑問を繰り返し書いているが、その謂いは宗教全般に対する疑問でもある。もちろん宗教全般がオウムのようになるわけではないが、宗教において「信じる」という行為に、常に危ういものを感じてしまう。


「一般的には、宗教とは、人間心理にとって最大のトリックである。神もしくは絶対者を「信じる」という心の働きにおいて、「疑う」すなわち「考える」という理性の働き、停止されることになるからである。考えることをやめ、信じるのみになった人の心は、どんな奇怪な観念でも受け入れることが可能になる。どうしてそれが可能なのかが、心の不思議でもあるのだが、おそらくその根底にあるのは、保身の裏返しとしての恐怖であろう。死もしくは死後への恐怖のゆえに天国を信じる、あるいは自ら判断することへの恐怖のゆえに、絶対者の言を信じる。しかし、人は、そのようにして保身されるべき自分の何であるか、あるいは死というものの何であるかを、そもそも知っているものだろうか。」(掲題書評より)

「理性により考えて、死は存在しないと知られたなら、「死後」などすべて物語だと、必ず見抜けるはずなのである。同時に、では今ここに存在している「自分」とは誰か、その謎に深く驚きこそすれ、絶対者の言を信じなければならない理由など、何もなくなるはずなのである。」(同上)


著者の早川は、自分を救済者であると特別視してエゴを喜ばせたり、グルにすべてを明け渡すという行為の中に“自分の認めた権威”というエゴがあったことを認め、本当にエゴを滅するためには、その“自分の認めた権威”すらも滅しなければいけなかった、と書いているそうである。それを評して池田さんは、大罪を犯してのちの本物の宗教心の目ざめであり、人間にとって「信じる」ということは、かくも難しいことなのだ、と結んでいる。


最後に出てきた「本物の宗教心」とは何なのか。「信じる」ことによって、「考える」ということが停止されてはいけなかったはずである。しかし根源まで「考える」ことによって、考えてもわからないものが残ったときに、信じるしかないものがあるということだろうか。「考える」ことが不十分なままに、「信じる」ということがあってはいけないことは明らかなのだろう。