哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

出生直後取り違え事件

2013-12-09 06:59:57 | 時事
掲題に関しては、映画やドラマで話題になっていたように思うが、50数年経って出生直後の赤ちゃん取り違えが判明して、病院を訴えて賠償金を得たとの内容の報道に接した。このケースでは、記者会見を開いた人の実の両親は他界しているという。映画やドラマでは、取り違えが子供の頃に判明して、親同士が元に戻そうと努力する話だったが(これも実話だそうだが)、50年以上経って分かった今回のケースでは、既に育ての家族との関係は確立しており、容易に元通りになれる関係とも思えない。

過去にも同じような話が報道されているらしく、池田晶子さんも同様の話題を取り上げている。

「折しも、四十年来親子として暮らしてきた人たちの間に、血縁関係がなかったことが発覚した。お互いに「実の」親子探しに懸命になっているというニュースがあった。
これなどにも垣間見えるのは、四十年という歳月より、見も知らぬ血縁の方を価値とするという心性である。四十年も一緒にいれば、「自然に」親子の情は発生するはずである。しかし、人はそれではなぜか納得しない。「親子の情」が自然なものではないことの端的な証明である。だからそれは何かの幻想なのではないか。どうも私にはそう思える。さらに決定的には、自分の子供は、自分ではなくて他人だということだ。人はこれを見事に忘れている。」(『人間自身考えることに終わりなく』「子供がほしい」より)


この文章の後ろの方では、「氏より育ち」という言葉を取り上げて締めくくっている。つまり、血のつながりよりも、育ての親とのつながりの方が深いのが普通に思われるのだが、今の世間では血のつながりを重視する風潮が強いようである。そして、池田晶子さんも指摘するように、現代においては親子の情はまるで幻想のようでもある。

冒頭の判決の話では、取り違えられた一方は生活保護で貧しい暮らしを強いられ、もう一方は裕福な家庭で大学にも進学したという。結果としてのこの50年の生活は、入れ替わるのが正しかったとマスコミ報道は言いたかったのだろうか。しかし、もちろん過去を変えることはできない。実の親に会えなかったという無念は、当事者以外には分からないものでもあろうが、育ての親との関係が容易になくなるものでもないことは、報道での会見から伺えた。氏より育ちというのは、やはり変わらないように思う。