コメント
 
 
 
じかにお訪ねになっているとは素晴らしいですね。 (yukariko)
2019-05-31 21:42:04
六波羅邸堀跡出土のニュースがテレビや新聞などで報道されて、びっくりして記事を熱心に読みました。
でも興味もそこまでで、詳しいことはもっと文献と合わせないとわからないのだろうと勝手に納得していました。
お尋ねになって撮られた写真、現場写真と実際の地図など、書かれた文章を読むと、昔の平家の六波羅の家屋敷がおぼろげに想像できるようでした。
sakura様の世界の中で平家の武将たちや公達が息づいているのがわかります。
 
 
 
発掘現場を見学したかったのですが (sakura)
2019-06-02 17:09:00
京都は「掘れば何か出てくる」といっても過言でないほどの遺跡の宝庫といわれています。
西八条第では、梅小路公園整備に先立つ調査で、火災による焼け土や
炭片とともに土器や瓦が出土し、平家の都落ちを物語る遺物となっています。
この遺物の出土状況や、西八条第の詳しい説明板が梅小路公園に設置されています。

六波羅は発掘がまだ進んでなく、その考古学研究は、
まだまだ探究の余地が残っているようです。

平家一門はそろって栄華を極め、そろって都を落ちていきました。
骨肉相食(あいは)んで滅びた源氏とは大きな違いですね。

「巻7・一門都落ち」によると、都落ちの朝に六波羅の平家館は一門の手で焼きはらわれ、
都を出た一行は、安徳天皇の輿を山城・攝津との国境・
関戸院(現、関大明神社・島本町山崎)におろしてふり返ると、
六波羅炎上の炎と煙で都の空は陽の光も見えなかったという。

 
 
 
六波羅蜜寺 (揚羽蝶)
2019-06-07 21:13:32
こんばんは
平家の六波羅邸の堀跡発見のニュースは、恥ずかしながら気が付きませんでした。春に門脇町、三盛町、池殿町あたりをぶらぶらし、六波羅蜜寺では、家内安全をお願いし、よく萬燈会の案内や暦を送って頂いています。五条通の清水焼のお店も回ったりしましたが、ホテルの工事は覚えていませんでした。また、いろいろなところで平家の遺跡や遺物が出てきたらよいと思います。
 
 
 
こんにちは (sakura)
2019-06-08 16:05:56
六波羅邸堀跡発見の記事は、揚羽蝶さまの地域の新聞には載ってなかったのかも知れませんね。このところ京都市内の中心部では、ホテルの建設ラッシュが続いています。調査地を探して歩いた時にも、堀跡のすぐ近く、東大路通りに面した場所でもホテルを建設していました。
都会のど真ん中ですから、建物の建て替えでもないと発掘調査はできないのでしょうね。

春には六波羅蜜寺を参拝され、周辺をぶらぶらされたそうですね。
私は六波羅の町名に目を留めながら歩くと、平家の人々に出会ったような錯覚にとらわれることがあります。

野口実氏は「平家が六波羅を本拠とした理由の一つは鴨川を水濠とし、東山を巨大な塁壁(るいへき)とすることのできる地形的特性にあった」と述べておられます。(「別冊太陽平清盛」)
平治物語によると、六波羅に押し寄せてくる義朝軍に対して平家は「五条橋の橋板をバラバラにして寄せ集め、垣のように盾を並べて(垣盾)という防衛体制をとっています。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。