平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



不動院(菩提心院)の境内には、鳥羽天皇の皇后・美福門院得子の御陵があります。
永暦元年(1161)11月23日、女院は白河の金剛勝院御所(白河押小路殿)において
亡くなりました。本来は、鳥羽上皇の葬られた安楽寿院(鳥羽離宮)の墓に
入る予定でしたが、遺骨を深く帰依する高野山に納めるよう遺言し、
同年12月高野山内に埋葬されました。
菩提心院は、嵯峨天皇の皇子が大師堂と十二坊舎を建てたのに始まり、
度々の火災で焼失、不動明王を本尊とする不動院だけが現存しています。
女院は生前から備前国の香登荘(かがとのしょう)を寄進し、この寺を整備していました。

高野山に草庵を結んでいた西行は、女院の納骨に立ち会い次の歌を詠んでいます。
美福門院の御骨、高野の菩提心院へ渡らせ給ひけるを、見たてまつりて
♪けふや君おほふ五の雲はれて心の月をみがきいづらむ(西行上人集 三九一)
あなたの身におおっていた女人の五つの罪障がはれて、
心の月(悟りを導く清浄な心)が輝きだすでしょう。

鳥羽天皇の後宮で熾烈な女の闘いを繰り広げた待賢門院と美福門院、
美福門院の死は、かつて待賢門院の兄徳大寺実能に仕え、
待賢門院を永遠の女性と崇めた西行にとって万感の思いがあったに違いありません。

不動院は大通りから少し入った奥まった場所に位置しています。

不動院は宿坊寺院です。

落ち着いた佇まいの門をくぐると美福門院の御陵があります。





不動尊を祀る本堂

もう一つ、美福門院ゆかりの六角経蔵が壇上伽藍にあります。
金堂の西に建つこの経蔵は、鳥羽院の追善供養のため、美福門院により建立され、
女院が自ら書写した紺紙金泥一切経(国重文)が安置されていました。
その際、荒川荘を寄進したことから、経蔵は荒川経蔵、
金泥一切経は荒川経ともよばれ、現在霊宝館に保管されています。
なお、この経蔵も焼失・再建を繰り返しており、現在の建物は昭和8年の再建です。



美福門院得子は白河院近臣の権中納言藤原長実の娘で、
その美貌から鳥羽上皇に寵愛され入内しました。
鳥羽上皇は待賢門院璋子が生んだ崇徳天皇をわが子と認めず、
祖父白河院の子と思っていました。祖父が亡くなると、
上皇は白河院との関係を噂されていた待賢門院璋子を遠ざけて、
崇徳天皇を無理やり譲位させ、美福門院が生んだ近衛天皇を皇位につかせます。

病弱な近衛天皇が皇子のないまま17歳で亡くなると、
上皇は後白河天皇を即位させます。その背景には、
崇徳を嫌う美福門院と信西の策謀がありました。
わが子重仁親王の即位を強く望む崇徳新院は、弟の後白河天皇に反発します。
一方、摂関家内部でも藤原忠通、頼長兄弟との争いが起こります。
摂関家の藤原忠実の二人の息子、兄の忠通は関白の地位につき、
弟頼長は左大臣でした。忠実は頼長を溺愛し、機会があれば氏長者の地位を
頼長に譲り、同時に忠通の関白をはく奪して頼長を関白に据えたいとまで
思っていました。しかし、近衛天皇の崩御が忠実・頼長の呪詛によるものと
讒言する者がいて、忠実父子は鳥羽上皇の信頼を失い失脚します。

保元元年(1156)鳥羽上皇の死をきっかけに皇位継承に
不満を抱いていた
崇徳新院と後白河天皇、そして藤原忠通、
頼長兄弟との亀裂が絡み合って
保元の乱が起こります。
鳥羽上皇と美福門院によって失脚させられた頼長が
崇徳新院と組み、
後白河天皇には美福門院・信西・忠通がつきました。

この乱に際して、表面上は軍兵の招集などすべてを美福門院が
取り仕切っていましたが、その陰で崇徳新院を排除し
後白河天皇の地位を
盤石にしようとする天皇の乳母の夫、
信西が主導権を握っていました。

この時、源義朝・平清盛ら源平両氏の有力武士は、
後白河天皇に味方し勝利をおさめます。
鳥羽崩御後の政局を一手に取り仕切ってきた信西が、
保元の乱を勝利に導き、政治の表舞台に飛び出してきたのです。

その後、後白河天皇が退位し、二条天皇を即位させて
院政を開始すると、
信西・藤原信頼の院政派と
二条天皇のもとに集まった天皇親政派が対立します。

院政派内部では、後白河の即位とともに発言力を増した
信西が藤原信頼の恨みを買い
確執を強めていきます。
信頼は保元の乱後の恩賞をめぐって不満をつのらせていた

源義朝と結んで蜂起し信西を討ちます。
保元の乱の僅か三年後に起こった平治の乱です。


その時、熊野詣での途上にあった平清盛はすぐに京へ引きかえし

源義朝・藤原信頼方に勝利しました。この結果、
清盛は武力の棟梁の地位を獲得します。

この乱で、信西・信頼らの側近を失った後白河院は、
政治力を弱め、
二条天皇との対立が再燃します。
二条天皇の最大の後見人である美福門院は、

天皇を支えました。天皇は生母が出産直後に亡くなったため、
祖父・鳥羽上皇に引き取られ、美福門院に養育されたからです。
このような状況の中、女院は44歳の波乱に満ちたその生涯を終えました。
『アクセス』
「不動院」和歌山県伊都郡高野町大字高野山456
南海電鉄高野山駅下車、南海りんかんバスで15分「蓮花谷」下車徒歩3分
『参考資料』

元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 五味文彦「西行と清盛」新潮選書 
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「西行のすべて」新人物往来社 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )