平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




金剛三昧院は、多くの参詣者で賑わう高野山のメインストリートから
南に入った小田原谷にある宿坊寺院です。



家並の途ぎれた先に長老坊金剛三昧院があります。

建暦元(1211)年、北条政子は源頼朝の菩提を弔うため高野山に禅定院を建て、
開山供養には栄西を招きました。堂塔が整備され山内で大きな勢力をもったのは、
三代将軍実朝が28歳という若さで亡くなってからのことです。
鎌倉幕府草創期、父の安達藤九郎(とうくろう)盛長と共に活躍した
安達景盛( 秋田城介)は、実朝が暗殺されたのを契機に出家し、
大蓮坊覚智と名のり高野山に入りました。

承久元年(1219)、実朝の菩提を弔うため、禅定院を改建し金剛三昧院と改めます。
堂宇の完成は貞応二年(1223)で、政子が施主となり、景盛が建立奉行を務め
大伽藍を造営しました。以来、安達氏三代、景盛・義景・泰盛が金剛三昧院と
高野山の強力な支援者となり、同院は高野山の中心的寺院の役割を担いました。
政子はこの改建に奉行の一人として活躍した実朝の側近葛山景倫(願性)を
由良荘(和歌山県日高郡由良町)の地頭に任命し、
その収入を三昧院維持の資にあてています。

山門の左側に国宝の多宝塔が見えます。

二層造の山門は文政年間の建築です。

正面の本堂内には愛染明王が安置されています。

本坊(重文)は鎌倉時代の建築です。

多宝塔は密教世界の中心である大日如来を象徴するといわれていますが、
高野山では特定の人の菩提を弔うためにもこの
塔が建てられました。
屋根は檜皮葺で四角形の初層に、円形の上層を重ねた二重の塔です。
塔内には金剛界の五智如来坐像(重文)が安置され、
周囲は華麗な宝相華紋の彩色で埋め尽くされています。

景盛は出家後も高野山にいながら、政治に強い影響力をもちます。
娘松下禅尼が経時(4代執権)、時頼(5代執権)を生み、彼らが執権になると
執権の外戚は三浦氏から安達氏に代わり景盛は幕府での権勢を強めます。
経時が在職わずか4年で亡くなり、時頼が執権に就任すると、景盛は時頼を動かし
長年権力の座を争って対立していた三浦一族を宝治合戦で滅ぼします。

宝治元年(1247)、高野山から鎌倉に戻った安達景盛は、義景・泰盛らに
三浦泰村らを討つよう命じます。北条勢も安達勢に加わり大戦闘となりました。
三浦一族500人は、頼朝の持仏堂・法華堂に退却しそこで自害しました。
こうして鎌倉幕府草創以来の功臣であり、北条氏と並ぶ
権門勢家の三浦氏は、七代泰村で滅亡し
安達氏の地位が確立しました。


景盛の父・安達盛長は、頼朝の乳母比企尼の娘婿で
頼朝の流人生活を側近として支え、頼朝挙兵の際には、
源家累代の家人を招集する使者となり東国各地を奔走しました。
頼朝には4人の乳母がいましたが、中でも比企尼は特別な存在でした。
頼朝は平治の乱で父を失い伊豆に流されています。
その時、都にいた比企尼は、夫の比企掃部允(かもんのじょう)と共に自領の
武蔵国比企郡に下り、20年余りの間、不遇時代の頼朝の生活を支え続けました。
その恩に報いるため頼朝は、鎌倉の中心地の一角に広大な館地を与え、
その一門や尼の娘婿を重用しました。
そして比企一門と源氏とは婚姻関係で強く結ばれます。
比企尼の養子能員(よしかず)の娘は、二代将軍頼家の妻となり嫡子
一幡(いちまん)を生み、尼の長女は安達盛長に嫁ぎ、
生まれた娘は源範頼(頼朝の弟)に嫁いでいます。
二女は頼家の乳母でもあり、河越重頼との間にできた娘は、
頼朝の命により源義経に嫁いでいます。
『アクセス』
「金剛三昧院」和歌山県伊都郡高野町高野山425 
「高野山駅」から南海りんかんバス「千手院橋」下車 徒歩10分

『参考資料』
「高野山」小学館 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 

細川重男「北条氏と鎌倉幕府」講談社 田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社

 


 

 



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