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鵯越から直線に南下した位置にある会下山(えげやま)は
一ノ谷合戦の主戦場となりました。
その西南麓の長田神社から山陽道を横切ると和田岬に達します。
戦いは源氏軍が優勢であったため、平家の武将が多く討たれ、
激戦地の中にあった長田区にはその史跡が点在しています。
その一つ、村野工業高校の校門傍に監物太郎の碑があります。
監物(けんもつ)太郎は、主君平知盛(清盛の四男)を救おうとして、
平知章(ともあきら)とともに戦い討死しました。
『平家物語』巻九「濱軍(はまいくさ)の事」の章段の一節です。
「監物太郎は飛びかかって知章の首を取った敵の首を掻き、矢種のある限り射つくし、
太刀を抜いて戦ったが、左の膝頭をしたたか射られて立ち上がれなくなり、
座ったまま討ち死にしてしまった。」
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地下鉄長田駅から地上に出たところにある長田神社南の交差点
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村野工業高校東側の細い道を少し北に行きます。
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路地の一角にある祠の中には、忠臣を称えて供養の碑が祀られています。
『摂津志』を編纂した儒学者・地理学者の並河誠所が碑を建立したという。
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祠には参拝者のために線香やローソクなどが置いてあります。
監物太郎頼賢の碑
監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣でした。平家物語によると
寿永三年(1184)二月七日、源平一ノ谷の合戦で活躍した監物太郎は、
主人の平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ
落ちのびようとしていました。その途中、源氏方の児玉党との戦いになり、
主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに
討死にすることになりました。
そのことによって知盛はおちのびることができたのです。
『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に、
並河誠所が諸国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、
監物太郎の忠義を称え顕彰するため、
西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。
現在、保存会により、毎年五月七日の命日に祭礼が執り行われています。
また願い事がかなうとされている為、
現在でもお参りに訪れる人が絶えることがありません。
なお、平知章の碑も同じ頃にこの付近に移され、
源平勇士の碑として五番町八丁目に祭られています。
監物太郎保存会 神戸市認定地域史跡 平成十七年三月十五日認定 (現地説明板)
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隣家、ただいまリフォーム中
『平家物語』新潮社の頭注には、監物太郎について次のように記されています。
監物太郎頼賢は系譜不詳。
「監物」は中務省に属して出納を監察・管理した職で、
この経歴のある者が姓とした例がある。
村野工業高校グラウンド西側には源平合戦勇士の碑があります。
源平合戦勇士の碑
『アクセス』
「監物太郎頼賢の碑」神戸市長田区四番町
神戸市営地下鉄「長田駅」又は神戸高速鉄道「高速長田駅」下車徒歩2、3分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター 「神戸歴史散歩」創元社