平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神戸村野工業高校グラウンドの西側に平知章(ともあきら)、平通盛(みちもり)、
源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六則(範)綱の碑が敵味方仲良く並んでいます。

昔、西国街道を挟むようにして、この付近を流れる
苅藻川(現・新湊川)の傍に、夫婦池のよばれる二つの池がありました。
今二つの池は埋め立てられ、北の小平六池は村野工業高校の敷地になり、
南の池は工場になっています。西国街道はいま車が走る国道28号線、
小平六池は源氏の武将の碑に因んで名づけられた名称です。




高速長田駅から村野工業高校へ

源平合戦勇士の碑は、神戸村野工業高校のグラウンドの西にあります。





西側には新湊川が流れています。

生田森の大将軍父の平知盛をかばって討たれた知章の墓
知章の墓は明泉寺にありますが、この碑は『摂津志』の著者並河誠所が、
人目につきやすい西国街道筋のこの地に新たに建てたという。

一ノ谷合戦で山ノ手の将軍通盛が内兜(顔面)を射られ
自害しようと落ちて行く中、木村三郎成綱ら七騎に取り込められて
討死する様子が『平家物語』に描かれています。

『吾妻鏡』には、木村三郎成綱の子俊綱が通盛を討ったと記され、
俊綱はもと平家の武士でしたが、都落ちの時に源氏方に寝返ったとしています。
ところが謡曲「通盛」では、木村源吾重章が
通盛と刺し違えたとして、碑にはこの名前が刻まれています。


猪俣小平六則綱は武蔵七党の一つ、猪俣党に属する武士で、
保元の乱では、同じ猪俣党の岡部六弥太忠澄、西党の平山季重らとともに
源義朝(頼朝の父)に従い、平治の乱では、待賢門合戦で
悪源太義平(頼朝の兄)率いる十七騎の中にその名が見えます。
頼朝が挙兵すると源家譜代の家人として直ちに参陣し、
一ノ谷合戦では平家の侍大将平盛俊に組み伏されますが、
ことば巧みに騙して盛俊を討ち取ります。

ここで源平合戦で活躍した武蔵七党をご紹介します。
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて関東平野に中小武士団が次々と誕生しました。
これが武蔵七党(横山党・猪俣党・野与党・村山党・児玉党・西党・丹党など)、
族縁(同じ祖先から分れた同族)によって結ばれた共同体です。
規模が小さく手勢も少ない彼らは自分の命と引きかえに功名手柄をめざします。

薩摩守忠度を猪俣党の岡部六弥太忠澄がまた父知盛の窮地を救った
平知章と家臣の監物太郎頼賢(方)を児玉党が討ち取っています。
手柄の見返りに与えられる恩賞にあずかろうと、
武蔵七党の面々は、時には仲間さえ欺きます。
一ノ谷西城戸の先陣を狙っていた西党の平山季重は、横山党の成田五郎に
「ただ一騎敵陣に駆け入っても、味方に功名を確認してもらえないぞ。
しばらく馬を休めて後陣の兵を待ちたまえ。」と言われ、それもそうだと
平山季重が味方をまっているすきに、成田五郎はさっと抜け駆けをしてしまいました。
「謀ったな。」と平山季重は一鞭打って成田五郎を追い抜き、
私市党の熊谷直実とともに敵陣にとびこみます。

また猪俣党の人見四郎は、親族の猪俣小平六がだまし討ちにしてとった
盛俊の首を奪い取ります。手柄を横取りしようとするすさまじい戦いです。

烏帽子親畠山重忠の指揮の下に出陣した大串次郎は、横山党の武士です。
大串次郎は宇治川合戦の際、馬を流されて溺れそうになり、
先頭を切って渡る畠山重忠にすがりつき、岸に投げあげてもらうと
すぐに立ちあがり「我こそは宇治川の徒(かち)立ちの先陣、武蔵国の住人
大串次郎重親。」と必死で名乗り、敵味方にどっと笑われましたが、
奥州合戦では、敵将の一人を討ち取ります。

元服した男子に冠をかぶせる役を烏帽子親といい、
一族や親が仕えている主人筋の有力者に烏帽子親を頼みます。
大串次郎は畠山重忠の直属の部下ではありませんが、支配される関係に
あったものと思われ、奥州合戦にも畠山重忠に従って出陣しています。

 生田の森の先陣を切ったのは私市党の河原太郎・次郎兄弟でした。
「千葉や畠山などの大豪族は郎党の手柄で恩賞にあずかれるが、
手勢の少ない俺たちはそうはいかないから。」と
子孫のために論功行賞に預ろうと、死を覚悟し馬にも乗らず、
藁草履のままで決死の働きをしますが、ついに戦死してしまいました。
苅藻川
六甲山地から流れ出た苅藻川は南流し鵯越付近へと流れ、
途中、湊川と合流して長田港に注ぎます。
長田区は南部に山陽道(西国街道)が通り、鵯越や一ノ谷に近いことから、
一ノ谷合戦の激戦地となり、平家の公達たちが次々と海上の船に向かって
落ちて行ったところです。苅藻川沿いにはその武将の塚が残っています。
猪俣小平六則綱のだまし討ちにあい戦死した盛俊の塚は
長田区名倉町の刈藻川のほとりにあり、そこから川筋を遡れば
長田区明泉寺町の明泉寺、平知章の墓があります。

小平六池付近の西国街道に面して平通盛・木村源吾重章・
猪俣小平六則綱の碑がありましたが、道路拡張のためたびたび移転し、
現在は苅藻川(現・新湊川)の傍に祀られています。

湊川は明治三十四年に改修され、長田神社の南付近で苅藻川と合流し、
合流地点から下流は「苅藻川」から「新湊川」と名を変えました。
村野工業高校校門付近には
監物太郎頼賢(方)の碑 があります。 
平通盛の陣跡氷室神社平通盛と小宰相1(氷室神社) 
 越中前司盛俊の最期(平盛俊塚)
平知章の墓  平知章 (明泉寺)  
『アクセス』
「源平合戦勇士の碑」神戸市長田区四番町

神戸市営地下鉄「長田駅」又は神戸高速鉄道「高速長田駅」下車徒歩4、5分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書
「南関東」世界文化社 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター
「兵庫県の地名」平凡社

 

 


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