コメント
一般の人々にも愛されてきたのですね。
(
yukariko
)
2013-12-27 22:28:19
「あないとほしや、武芸にも歌道にもすぐれて、よき大将軍にておはしつる人を」とて皆鎧の袖をぞぬらしける…と
死の直前まで風雅の道を忘れなかった忠度の死に同情を惜しまなかったとお書きですね。
…既に戦の勝敗はほとんど定まっていきつつあったでしょうが、「薩摩守忠度ををお討ち申したぞ!」との名乗りに敵味方共胸を突かれ悲しみを覚えたとは、それだけ忠度の勲しと共に風雅の道にも堪能であったことが広く知られていたのでしょうね。
お写真で見る「腕塚堂」は小さなお堂ですが、有名なお寺でなく、平家物語を通じて一般の人々にも愛され、長い年月祀ってこられたのがよく分かります。
よく知られていたようです。
(
sakura
)
2013-12-28 12:04:18
源氏の武将たちの多くが武芸一点張りだったのに比べ、
平家の公達には武芸だけでなく、忠度のように風雅の道にも
たしなみ深く、その名を残した者がいます。
この人たちを「平家物語」(の作者)は褒めたたえ、
その死を惜しんでいるので、いやがうえにも
この物語を読む人々に愛され、同情をえます。
通りがかりの人にお聞きすると、阪神淡路大震災では、
十三重の塔がばらばらに崩れたそうですが、
画像で見て下さったように現在は修復され、修築者のお名前が刻んでありました。
花は今宵の主なるらむ
(
自閑
)
2015-10-04 19:21:30
猫に気を取られ、蛭子神社まで行ってしまいましたが、貴ブログの詳細案内のお蔭で、到達致しました。この路地は、分からないですね。
両塚とも、地域の方々の歌人を愛し、武人の最後を哀れんでいる様子が垣間見えました。
これで埼玉の腕塚とともに三塚がそろったのですが、首は京に引き渡されたんですよね。
首だけでも帰りたかった京に戻れたとして良しとしましょう。
前途程遠し思いを雁山の夕の雲に馳す
後会期遥かなり。纓を鴻臚の暁の涙にうるおす
拙句
行き暮れし武人の泪秋の暮
わかりにくいです。
(
sakura
)
2015-10-05 14:37:39
私は、首塚の方は何とか探すことができましたが、
この塚から胴塚への道に迷ってしまい、後日、改めて出直しました。
殆どが自分自身も道を探しながらの史跡めぐりです。
うまく案内できているかどうかわからないのですが、
ひとつの目安となればと思っております。
訪ねてくださってありがとうございました。
ありがとうございます
(
nucgnohz
)
2017-01-28 20:28:14
他のコメントされている方と違い、私は駒ヶ林にある温泉に興味があり、そこから新長田駅まで歩いて帰る途中に、ふとこの辺りは神戸なのに全く坂がない!ポートアイランドを歩いているような感じがして、いつの時代にかに埋め立てされたのだと思って調べてみたら、腕塚、胴塚があることを知りました。それで貴ブログにたどり着きました。写真入りの詳細な内容はとても参考になります。平安時代からこの地はあったのですね。埋め立てかどうかはともかく。今度訪ねてみます。ありがとうございました。
ご訪問ありがとうございました。
(
sakura
)
2017-01-29 09:09:47
六甲山系の山裾にできた神戸は坂の町といわれるほど勾配が多いのですが、
駒ヶ林の辺りはお書きくださったように確かに平坦です。
ここに温泉があるのですね。気がつきませんでした。
「兵庫の街道いまむかし・神戸新聞総合出版センター」によると、
刈藻川(現在の新湊川)から妙法寺川にかけては、
ひなびた漁村が広がり、松林が美しい海辺に家が建ち並び、
その中で駒林は一番大きな村だったようです。
その一画にある駒林神社の神事「左義長祭」が昭和34年まで行われ、
この始まりは平安時代と伝えているので、駒林村は同時代には存在したことになるようです。
駒ヶ林の埋め立てに関しては、手元に資料がないので
インターネットで「神戸市の埋め立て」を検索してみました。
「駒ケ林の海岸地帯は、昭和7年頃から埋め立てが始まり、
昭和33年からの埋立て工事によって、駒栄町の南に、
166,430平方㍍の南駒栄町が誕生しました。
町は、北に高松線が東西に通り、西は長田港、東は運河に囲まれた工業地帯です。」
また機会があれば腕塚・胴塚、お訪ねになってみてください。
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死の直前まで風雅の道を忘れなかった忠度の死に同情を惜しまなかったとお書きですね。
…既に戦の勝敗はほとんど定まっていきつつあったでしょうが、「薩摩守忠度ををお討ち申したぞ!」との名乗りに敵味方共胸を突かれ悲しみを覚えたとは、それだけ忠度の勲しと共に風雅の道にも堪能であったことが広く知られていたのでしょうね。
お写真で見る「腕塚堂」は小さなお堂ですが、有名なお寺でなく、平家物語を通じて一般の人々にも愛され、長い年月祀ってこられたのがよく分かります。
平家の公達には武芸だけでなく、忠度のように風雅の道にも
たしなみ深く、その名を残した者がいます。
この人たちを「平家物語」(の作者)は褒めたたえ、
その死を惜しんでいるので、いやがうえにも
この物語を読む人々に愛され、同情をえます。
通りがかりの人にお聞きすると、阪神淡路大震災では、
十三重の塔がばらばらに崩れたそうですが、
画像で見て下さったように現在は修復され、修築者のお名前が刻んでありました。
両塚とも、地域の方々の歌人を愛し、武人の最後を哀れんでいる様子が垣間見えました。
これで埼玉の腕塚とともに三塚がそろったのですが、首は京に引き渡されたんですよね。
首だけでも帰りたかった京に戻れたとして良しとしましょう。
前途程遠し思いを雁山の夕の雲に馳す
後会期遥かなり。纓を鴻臚の暁の涙にうるおす
拙句
行き暮れし武人の泪秋の暮
この塚から胴塚への道に迷ってしまい、後日、改めて出直しました。
殆どが自分自身も道を探しながらの史跡めぐりです。
うまく案内できているかどうかわからないのですが、
ひとつの目安となればと思っております。
訪ねてくださってありがとうございました。
駒ヶ林の辺りはお書きくださったように確かに平坦です。
ここに温泉があるのですね。気がつきませんでした。
「兵庫の街道いまむかし・神戸新聞総合出版センター」によると、
刈藻川(現在の新湊川)から妙法寺川にかけては、
ひなびた漁村が広がり、松林が美しい海辺に家が建ち並び、
その中で駒林は一番大きな村だったようです。
その一画にある駒林神社の神事「左義長祭」が昭和34年まで行われ、
この始まりは平安時代と伝えているので、駒林村は同時代には存在したことになるようです。
駒ヶ林の埋め立てに関しては、手元に資料がないので
インターネットで「神戸市の埋め立て」を検索してみました。
「駒ケ林の海岸地帯は、昭和7年頃から埋め立てが始まり、
昭和33年からの埋立て工事によって、駒栄町の南に、
166,430平方㍍の南駒栄町が誕生しました。
町は、北に高松線が東西に通り、西は長田港、東は運河に囲まれた工業地帯です。」
また機会があれば腕塚・胴塚、お訪ねになってみてください。