平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平清盛は平家物語では人の気持ちのわからない暴君として描かれ、
物語の冒頭で『驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き人も遂には亡びぬ、偏に風の前に塵に同じ。』とし反逆と横暴に
よって歴史に
名を残した中国や日本の驕れる人、猛き者を列挙し、
最後に清盛の有様を『間近くは、六波羅入道前の太政大臣平朝臣
清盛公と申しし人のあり様、伝え聞くこそ心も言葉も及ばれね。』と
その横暴ぶりにおいて誰よりも勝っていたと語っています。
しかし、清盛の生涯を史実に即して見てみると、確かに最晩年には悪行が
集中して行なわれていますが、実像は平家物語が冒頭で語るイメージとは
程遠いように思われます。平治の乱後、頼朝が助命されたのは上西門院に
依頼された池禅尼が清盛を説得したといわれていますが、それを受けとめた
清盛が
大らかな人物だった事も起因しているのではないでしょうか。
「平家物語・経の島の事」、鎌倉時代中期の説話集
「十訓(じっきん)抄」からも迷信や旧習にとらわれない合理的な考えを
持つ一方で大変思いやりのある一面があることが垣間見えてきます。
今回は清盛にまつわるエピソードや「経の島の事」、「十訓抄」から
知られざる清盛の人柄について触れたいと思います。

平治の乱は清盛が熊野参詣に出かけた後、藤原信頼、源義朝が後白河院の
御所三条殿を襲撃して始まった。藤原信頼は後白河院を一本御書所に幽閉、
二条天皇を内裏に移して除目を行なった。すぐに京へ引き返した清盛は
二条天皇の側近と連携して天皇を六波羅に脱出させた。この時、摂関家の
関白藤原基実が六波羅へ駆けつけたが、基実は平治の乱の首謀者
藤原信頼の妹婿であるため、その場にいた人々の間には微妙な空気が流れた。
しかし清盛は心おきなく歓迎したので人々は感心したという。清盛の度量の
大きさを示すエピソードである。平治の乱後、清盛は武士としてはじめて
公卿の列に連なり、やがて太政大臣という最高の官職についた。
当時、後白河上皇と二条天皇は父子でありながら仲が悪く、双方の貴族は対立
していたが、清盛は後白河上皇、二条天皇双方に心配りをして慎重に行動
したので、異例のスピード出世にも関らず清盛を悪く言う者はいなかったという。
*二条天皇は後白河上皇の子であるが、美福門院の猶子になっている。
鳥羽院と美福門院は、近衛天皇崩御の後、二条天皇を即位させるまでの
中継ぎの天皇として後白河を即位させた。しかし後白河にとってこのような
状況が面白いはずはなく、この父子の間には潜在的な対立があった。

「平家物語(巻六)経の島の事」
清盛の葬送の夜、どうしたことか不思議な事が起こった。玉を磨き金銀を
ちりばめて造った西八条殿が急に焼けた。放火という噂であった。
またその夜、六波羅の南の方角で2、30人ほどの声がして「嬉しや水、鳴るは
瀧の水…」という延年舞の歌謡を舞い踊り、どっと笑う声がした。去る、正月に
高倉上皇が崩御され、僅か1、2ヶ月をおいて入道相国が亡くなられた。
身分のいやしい賤の者といえども、どうして嘆き悲しまずにいられよう。
これはきっと天狗のしわざであろうと取りざたされた。平家の中で血気盛んな
若者百人余が笑い声をたよりに尋ねて行くと、院の御所法住寺殿であった。
この御所には、この三年の間、院のおいでもなく留守を預かっていた
備前前司基宗の知り合いの者どもが集まって酒を飲んでいたのである。
時節柄騒ぐまいと言っていたがそのうちに酔いがまわってきて舞い踊りの
騒ぎになった。そこへ押寄せた若者らが酒に酔った者どもをからめとって
六波羅に引っ立て御殿の中庭に引き据えた。前右大将宗盛はことの子細を
尋問し「酔っているものを斬るわけにもいかない」と全員が釈放された。
『百錬抄』によるとこの酒宴騒ぎは最勝光院の中であったとしています。
最勝光院は法住寺殿の一角にあり、建春門院の御所でした。清盛が亡くなる
少し前に後白河院は最勝光院に移られ、清盛が死亡した夜、最勝光院から
今様を乱舞する声が聞こえてきたのは「清盛死去」の記事で述べました。
*「嬉しや水、鳴るは瀧の水…」
延年舞(興福寺、東大寺、延暦寺、四天王寺等で法会の余興に僧や
稚児の演じた舞)の詞で、よく歌われていた。
『梁塵秘抄』四句神歌(しくのかみうた)に「滝は多かれど 
うれしやとぞ思ふ 鳴る滝の水 日は照るとも絶えでとうたへ
やれことつとう」とあり『義経記』他中世の作品によく見える。


人が死んだ後は朝夕に鐘をならし常例の勤行をするのが世のならいであるが、
入道相国の死後、法事はいっさい行なわれず、明けても暮れても合戦の策を
めぐらせていた。清盛公の最期の様子は見るにたえなかったが、
普通の人とは思われないことも多かった。日吉神社へ参詣の時なども平家
はじめ他家の公卿たちを大勢お供につれて行かれるので、摂政関白の
春日参り、宇治参りなどもこの盛大さにはとても及ぶまいと世間の人々は
噂しあった。また何よりも福原の経ヶ島を築いて、上り下りの船が今の世に
至るまで不安なく航行できるようにしたのは誠に賞賛に価することである。
経ヶ島は応保元年二月上旬に築き始められたのであるが、同年八月に
突然大風が吹き、大波が立って崩れてしまった。同三年三月下旬に
阿波民部成能を奉行として再度築かれた。その時、「人柱をたてるがよかろう」
などと公卿詮議があったが清盛は「それは罪深いことだ」と石の面に一切経を
書かせて海に沈めた故に人工島は経の島と名づけられた。

「十訓抄(第七思慮を専らにもっぱらにすべき事)第二十七」
福原大相国清盛公の若い頃は立派であった。その場に困り果てるような、
どんな嫌なことであっても、その人が冗談でやったことと思い定め、
その人がやったことが少しもおかしくなくても、本人の前では、にこやかに
笑ってやる。部下がどんな誤りを犯しても、また物を散らかし、
とんでもない事をしても、荒々しく声を立てることなども一切なかった。
冬の寒い頃には若い小侍従たちを自分の衣の裾のほうに寝かせてやり、
彼らが朝寝坊していればそっと寝床から抜け出して思う存分寝かせて
やった。召し使うにはあまりに身分の低い者であっても、その者の家族や
知人が見ている前では一人前の人物として扱ったのでその者は
大変に名誉だと感じ心から喜んだ。このように情けをおかけになるので、
ありとあらゆる者たちが、清盛公に心服したのだった。
人の心を喜ばせるというのはこういうことをいうのである。

『参考資料』
上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 上杉和彦「平清盛」山川出版社
上杉和彦「歴史に裏切られた武士 平清盛」アスキー新書 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 高橋昌明「別冊太陽 平清盛」平凡社
新編日本古典文学全集「十訓抄」小学館 新潮日本古典集成「平家物語」(上・中)新潮社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館

 

 

 



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