平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



  
平家物語の中で最も有名な章段の一つに『妓王の事』があります。
この物語の主人公白拍子の妓王は『平家物語』の中の人気者です。
野洲市は妓王・妓女の故郷と伝えられ、この地には妓王寺や妓王の屋敷跡があります。

地元の伝承や『妓王寺略縁起』によると、「妓王は江辺庄の橘次郎時長の娘といわれ、
院の北面であった父が保元の乱で戦死したため、妓王・妓女は母刀自とともに都へ出て
白拍子となり、平清盛の寵をえた。妓王は水不足に苦しむ故郷の人々のために
清盛に願い出て野洲川から琵琶湖まで約12キロの水路を掘ってもらい
村人は妓王を讃えてこれを祇王井と名づけた」と伝えています。
祇王井が平安時代末に農業用水として開削されたことは事実ですが、確実な史料に
これが記載されるのは、妓王の頃から四百年以上もたった江戸時代初のことです。

 新潮日本古典集成『平家物語』(上)には義(妓)王の伝説について
「清盛の寵を受けるようになった義(妓)王は、清盛に乞うて故郷に
用水を造り、今に妓王川として残るという。これを証すべき史料は
もとよりないが、その地が篠原・鏡など遊女の宿駅に近いことは
注意されてよい。」という注釈が付けられています。
東山道の鏡宿で遮那王が元服の式をあげて源九郎義経と名乗ったと『平治物語』に見え、
『義経記』では、この宿で遮那王(義経)が強盗を討ち取っています。
篠原宿は平治の乱で敗れた頼朝が伊豆に流された際、頼朝に好意を寄せる
平家の侍平宗清がこの宿まで送っています。
また壇ノ浦合戦で捕らえられた宗盛は義経に伴われて、鎌倉に護送され
頼朝に対面した後、そのまま京へ向い、この宿で処刑されました。
このように東山道沿いの「鏡」「篠原」の両宿は、平安時代末期交通の要衝として栄え、
遊女も多くその中から都に上り白拍子となり名をなした者もいたでしょう。
『源平争乱と平家物語』には、「妓女は白拍子を意味する普通名詞、
妓王は妓女に対応する普通名詞的な呼称だと思う。刀自も老女を意味する
一般名称でありそのような女性の実在を証明するのは困難だと思う」と記されています。
清盛をめぐる妓王・仏の悲話が本当であったのかどうか、真相は分かりませんが
篠原や鏡宿の遊女の伝説が語り継がれ、妓王に仮託されて水利をめぐる問題と
結びつけられてやがて妓王伝説となったとも考えられています。
















ここで『平家物語・妓王の事』のあらすじを簡単にご紹介します。
妓王・妓女の姉妹は都に聞こえた白拍子の名手であった。姉の妓王は
今をときめく清盛の寵愛を受けて、西八条邸で幸せな日を送っていた。
おかげで彼女の母刀自(とぢ)も立派な屋敷で豊かに暮らしていた。
それから三年が過ぎ、加賀の者で仏という若くて美しい白拍子の
名手が西八条邸に現れた。清盛は仏を追い返そうとしたが、
情け深い妓王のとりなしで対面がかなう。
仏御前の謡う今様に心を動かされ、その舞に魅せられた清盛は
たちまち寵を移し妓王を邸から追い出してしまった。妓王は出て行く際、
♪もえ出るも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき
 と詠み襖に書き付けます。
(仏御前もいづれかには自分のようにあきられてしまうであろう)

翌年の春、妓王は、清盛に仏が退屈しているので慰めに来て欲しいと
呼び出されます。母に諭されてやむなく邸に出向くと下座に侍らされ、
かっての自分の席から仏御前が見守る中、今様を歌わされるという
辱めを受けました。惨めさに深く傷ついた妓王は母や妹とともに出家して
嵯峨野に庵を結びました。その年の秋も深まったある夕べ、3人が念仏を
唱えていると庵の戸をたたく者がいます。尼僧姿の仏御前です。
「私もいつか捨てられる身、来世の往生を願おうとたずねてきました。」という。
以来、4人はともに朝夕仏前に花香を供えひたすら念仏を唱え、
それぞれ静かに極楽往生を遂げたということです。
後白河法皇の長講堂の過去帳には「妓王・妓女・仏・とぢ等が尊霊」と
4人の名前が入れられたという。

ここに登場する清盛は思いやりのない無神経な男として描かれ
世の人々にひどく悪いイメージを与えました。『京都発見(1)』によると
「平家物語は法然の専従念仏の宣伝書という意味をもっている。」とあり、
物語は清盛の横暴を伝える説話から当時、高まっていた念仏往生の
説話へと展開している。この世の栄華のはかなさにいち早く気づいた
妓王や仏たちが仏教に帰依し、往生したことに多くの読者や聞き手は
彼女たちの運命に涙を流し、惜しみない拍手をおくったことであろう。
はたして妓王という名の白拍子は実在の人物だったのだろうか。
この物語は史実なのだろうか。それを確かめる史料はない。」とあります。

白拍子というのは鳥羽天皇の時に始まり、島の千歳・和歌の前という
遊女が白い水干に立烏帽子、白鞘巻(しろさやまき)の刀という出で立ちで
男装で舞った。これを男舞といったが、のちに烏帽子、刀をとって
水干だけで舞ったので白拍子といったと平家物語では述べている。
『徒然草』は、藤原通憲入道(信西)が、舞の型の中で特に面白いものの数々を
選び磯禅師に教え舞わせた。白い水干を着た上に、鞘巻を腰に差させて、
烏帽子をかぶって舞う扮装であったのでこれを男舞と言った。この舞を禅師の
娘静が継承したのが白拍子の起こりと説明しています。(第225段)
禅師の娘静とはむろん源義経の愛妾静御前のことです。磯禅師は白拍子を
育成し統括、派遣する役目を果たしていたと考えられています。
京都市嵯峨野にある祇王寺もご覧ください。

祇王寺 (祇王・祇女) 
『アクセス』
「妓王寺」野洲市中北90 
JR野洲駅北口から近江鉄道バス木部循環行で約10分、「江部」下車、 徒歩約10分。

バスの本数が少ないのでご注意ください。
妓王寺には、妓王・妓女、母刀自、仏御前の4人の像が安置されています。
通常拝観は予約が必要ですが、今年はNHkの大河ドラマ平清盛が放送されている関係で
平成24年11月30日までは毎日予約なしで見学可 9:00~16:30

「妓王屋敷跡」、「土安(てやす)神社」どちらも妓王寺の近くにあります。

『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 梅原猛「京都発見」(1)新潮社 
細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
五味文彦「源義経」岩波新書 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「滋賀県の地名」平凡社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )