源氏堀川館は、源氏累代の邸があった所で六条堀川館ともいい、
源頼義が西洞院(にしのとういん)左女牛(さめが)小路に館を構えて以来、
義家、為義、義朝、義経まで六条堀川を拠点にしました。
頼義は前九年合戦を鎮圧し、武勇をうたわれただけでなく、
朝廷にも出仕してその名を高めます。
さらに京都に進出するためには都に拠点をもつ必要に迫られ、
六条堀川に営んだのがこの館で、その嫡男
八幡太郎義家が誕生したところでもあります。
以来、義家・為義・義朝・義経まで六条堀川を拠点としました。
為義が「六条判官」と呼ばれたのは、この地名によるものでした。
六条通リは、平安京の六条大路にあたりますが、
現在の六条通は狭い道路となっています。
源氏堀川館の位置は、北は五条通の一筋南の楊梅(ようばい)通から
南は六条通まで、東は油小路から、西は堀川小路までの方一町の地で、
現在の朴味金仏(ぼくみかなぶつ)町の西半分と、
佐女牛井(さめがい)町にあたります。
「左女牛井之跡」の石碑の少し北に
「下京区楊梅通醒ヶ井東入泉水町」と記された住居表示のプレートがあります。
平治の乱で義朝が清盛に敗れると、源氏堀川館は平家によって
焼かれましたが、後に源義経が後白河法皇から与えられた邸も、
この辺りにあったという。
壇ノ浦合戦で捕われた宗盛父子が鎌倉へ護送されるまで、
一時義経の館に留め置かれました。
文治元年(1185)10月17日、源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が、
軍勢を引き連れて、義経を討とうと夜討ちをかけたのもこの館です。
この襲撃は失敗し、同月26日鞍馬山で捕えられ六条河原で斬られました。
源氏堀川館は、六条西洞院 (にしのとういん)の西にあった
後白河法皇の仙洞御所六条殿の近くにあり、土佐坊を
追い散らした義経は、すぐに六条殿に参上し状況を報告しています。
義経が頼朝と対立し、京都を去る時に館は焼き払われ、
その後は再興されることはありませんでした。
邸内には名水「左女牛井」がありましたが、第二次大戦中、
井戸は建物疎開と堀川通の拡幅により取り壊され、
現在、堀川通り六条西側歩道の一角の植え込み内に
「左女牛井之跡」の碑と駒札がたっているだけです。
この井戸からくみ上げた水を村田珠光が茶の湯に用いたといわれます。
佐女牛井跡
京の名水として平安時代より知られ、
源氏の邸いわゆる六條堀川館の中にとりいれられていた。
室町時代には南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し、
足利義政も来遊したという。江戸初期元和二年五月織田有楽斎は
これを改修した。内径二尺四寸(約73cm)の円井戸であった。
その後天明の大火で埋もれたが、寛政二年、藪内家六世
竹陰によって修補され、その碑が七世竹猗によって建てられていた。
しかし、円井戸、碑ともに第二次世界大戦最末期の民家の
強制疎開によって撤去された。昭和四十四年醒泉小学校
百周年の一つとしてここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。
「佐女牛井之跡」の碑
碑の背面には「醒泉(せいせん)小学校創立百周年記念事業委員会」と刻まれています。
側面には「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代既に名あり。
元和二年在銘の井戸稀なり。第二次世界大戦に際し昭和二十年疎開の為撤去さる。
当学区醒泉の名は之に由来する。井筒雅風」と刻まれています。
西洞院通の一筋東、若宮通に若宮八幡宮があります。
若宮八幡宮は頼義が邸内に石清水八幡宮より八幡神を勧請したのが始まりで、
六条八幡、左女牛八幡とも呼ばれました。
若宮八幡宮は、慶長10年(1605)五条坂へ移転しました。
社前の鳥居横にたつ若宮八幡宮の碑の側面
頼朝は若宮八幡宮を手厚く保護し、室町時代には、源氏の一族
足利将軍家が帰依し隆盛しましたが、応仁の乱で荒廃してしまいました。
慶長十年(1605)、豊臣秀吉の命により東山に移転し、
五条坂(五条通大和大路東入北側)に移されました。
この地にある若宮八幡宮は、町民によってもとの社地に再建された社です。
五条坂にある若宮八幡宮をご覧ください。
若宮八幡宮 (八幡太郎義家)
若宮八幡宮由来記(現地説明板)
当宮は天喜5年(1058)源頼義が後冷泉天皇の勅を奉じて創建され
六条八幡とも左女牛井八幡とも言われました。
平安時代は五条大路までが市街地で、六条の地は堀川館をはじめ当町には
頼義・義家の館、その東には後に義経が居を構えるなど 長く源氏の邸宅が
あったところとして著名で「拾芥抄(1540年代)」には「八幡若宮義家宅」の
書き入れがあり「古事談」にも「六条若宮はかって源頼義が
邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。
また義家誕生水と称される井戸の伝承地があると記されています。
「吾妻鏡(1190年代)」によると文治三年(1187)正月十五日
六条以南・西洞院以東の壱町の左女牛井御地を社地として
六条若宮に寄進されたとあります。
そもそも左女牛(さめごい)とは現在の醒ヶ井通りのことではなく
平安京条坊図によれば北から五条大路(現・松原通)樋口小路(現・万寿寺通)
六条坊門小路(現・五条通)楊梅小路・六条大路・左女牛小路(現・花屋町通)・
七条坊門小路(現・正面通)北小路・七条大路とあり寄進された壱町とは
正しく若宮八幡宮を中心とした一区画であります。以来、源頼朝からも
格別の崇拝を得、文治三年六月十八日には放生会を始行すべき沙汰あり、
同年八月十五日に鎌倉八幡宮と共に放生会が行われたのが
今日の祭事の始まりです。―以下略―若宮町
通法寺跡・源氏三代の墓
『アクセス』
「左女牛井之碑」市バス五条堀川下車徒歩5分
堀川通の西側を西本願寺の方向(南)へ進むと、
歩道に沿って緑地があり
石碑と駒札がその中に立っています。
「若宮八幡宮」京都市下京区若宮通花屋町上ル若宮町
市バス西洞院下車徒歩2、3分
「左女牛井之碑」からは、六条通を東へ進み、若宮通を右折して南へ
やがて左手に小さな社が見えてきます。
『参考資料』
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「京の史跡めぐり」京都新聞社
井上満郎「平安京の風景」文英堂 「平安時代史事典」角川書店
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館
以前から時代によって神社仏閣も栄枯盛衰・隆盛没落が激しくて、その挙句に秀吉などによって移転させられ元の町名と違う所にあったりして、たしか元誓願寺町の誓願寺もそうでしたね。
碑と駒札があり、地元の方によって祀られている大事な史跡ですね。名水跡も京都が戦争で焼けなかったからこそまだ残っていると言うべきでしょうか?
若宮という名前から鎌倉の若宮大路を思い出したのですがここも最初頼義が八幡宮を勧請したと書かれていました。
いよいよこれから関東が舞台になり始めますね。
でも『藤原経清は斬首、妻は幼い清衡をつれて清原武貞の後妻に清衡は清原氏の子として成長します。』
この辺を読んで!!…複雑な時代は色々ありすぎて人物の相関図をとても覚えきれないです(笑)
京都史跡事典によるとS・24年に陶祖神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀し、
陶器祭りには陶器絵馬の授与があるそうです。
(以前通りがかりに撮った写真が3枚ほど残っていると思います、次回見てください。)
若宮町は元誓願寺町と同様もとの地に町名が残っていますし、
町の人によって守られている源氏ゆかりの神社があるのは嬉しいです。
鎌倉へは何度も行かれているのでしょうから、元八幡か鶴岡八幡宮で説明を読みになったのでしょう。
江ノ電の一日切符を買って乗車されたのもyukarikoさんでしたか。
頼義が鎌倉の地を平直方から譲られ、前九年の役で勝利した時
石清水八幡宮を勧請したものでしたね。
コメントに書いていただいたように、藤原清衡は父の敵の中で育てられ
母親も夫の仇の後妻とはいえ正妻になり、後三年の役では、父を殺した頼義の子・義家の助けをかりて
清原氏を倒し奥州を手に入れるのですから清衡の心中は?
頼朝も父が殺され自身は蛭が小島で辛抱の日々を送って最期天下を手にしますから
二人はどこか似ているかも知れません。
後三年合戦関係の系図をもう少し丁寧に見てみると清原真衡には子供がなく
桓武平氏の子孫から養子をもらっています、その養子の妻は源頼義の娘です。
複雑な人間関係の中で内紛は起こるべくして起こったのかも知れません。
次回は源家に伝わる太刀鬼丸・蜘蛛切の行方が「剣巻」に
前九年合戦・後三年合戦の物語とともに書かれています。
義家の弟・新羅三郎義光の物語も折り込みながら見てみたいと思います。
長い物語を読むのは根気が要りますね。いつも付き合って下さってありがとうございます。