平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




満願寺は高野山真言宗の寺で8Cに聖武天皇の勅願により創建され、
源満仲が多田に本拠を構えこの寺に帰依してから、
歴代摂津源氏、多田源氏の崇敬を集めたといわれています。


阪急電車雲雀ケ丘花屋敷駅から満願寺への途中にある道標。

満願寺境内「源家七塔」の傍に多田神社へのハイキングコース出発点があります。
満願寺の境内を出て脇道を下りるとすぐ愛宕原ゴルフクラブに沿って
大きく迂回する
遊歩道に出ます。「ゴルフ玉に注意」の掲示を目にしながら
しばらく進むと、
アップダウンのある山道にさしかかります。
木立の合間から所々顔を出す能勢の山々を
臨みながら山道を下ると
急に視界が開けニュータウン湯山台に出ます。

住宅街にある道標に従って20分も歩くと、まもなく多田神社の鳥居が見えてきます。
(満願寺から多田神社までは40~45分)

満願寺山門の金剛力士像は明治初に多田神社南大門より移されました。

満願寺本坊

金堂

金堂・毘沙門堂


坂田金時の墓この奥50m先を左へ

童話や童謡で足柄山の金太郎で
知られる坂田金時の墓。
「源家七塔」中央の仲政(仲正)は源頼政の父です。

多田院の住職となった美女丸・幸寿丸・源満仲の家臣で幸寿丸の父藤原仲光の三廟。

釣鐘堂より

「源家七塔」左手の脇道から多田神社へ



多田神社鳥居

美女丸伝説
源満仲の末子美女丸は僧侶になるため寺に預けられますが
修行もせず毎日武芸のまね事をして過ごしていました。
これを知った満仲は怒り家臣の藤原仲光に美女丸の首をはねるよう命じます。
しかし仲光は主君の子の命を絶つことができず、実子の幸寿丸を斬り美女丸を
逃がします。後にこのことを知った美女丸は修行に励み、やがて源賢という
高僧になります。そして天禄元年(970)満仲が多田院を建てた時、
この院の住職となります。
この物語は謡曲「仲光」でも知られています。
頼光四天王
渡辺綱(頼光母方の一族嵯峨源氏・源綱とも)、碓井貞光、
卜部季武、
坂田公(金)時の四人です。
頼光が東国から都へ帰る途中、足柄山で金時と出合い郎党の一人に

加えたという伝説があり、その童姿は五月人形でもよく知られています。
多田神社 (源満仲・源頼光)  

『アクセス』
「満願寺」川西市満願寺町7-1
阪急電車雲雀ヶ丘駅より愛宕原ゴルフ場行バス10分 満願寺前下車
バスの本数が少ないので要注意
または阪急電車雲雀ヶ丘駅よりバス道に沿って2.5K(上り坂多し)
『参考資料』
新「兵庫史を歩く」NHK神戸放送局編 管原いわを「川西の人と歴史」創元社
 

 

 



 


 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
さすが源氏発祥の地ですね。 (yukariko)
2009-03-08 23:25:43
摂関家の家司や国司を務め巨額の富を集めたとしても時代が下がれば忘れ去られ、その菩提寺なども消えたり、有名な神社仏閣の末寺になったりするものですが、満仲・頼光・頼信の場合は、鎌倉(源)、室町(足利)、江戸(徳川)と征夷大将軍はいずれも源氏を称したから、その始祖の神社・菩提寺は大事にされたでしょうね。

境内・拝殿・本殿も立派だし、石塔・墓所も整備されていて、大事に守られている感じ。

川西と多田・源氏の成り立ちを知らなければ不思議に思うところでした。

以前に尼崎の近松記念館に行った時、広済寺横の須佐男神社に参って源満仲の勧請によると書かれていてびっくりした事があります。
その時代から大きな勢力があったのだと分かりました。

…須佐男神社
957年、村上天皇の御世に、多田満仲公の勧請により建立されたと伝えられ、神社境内は、江戸時代の『摂津名所図会』にも紹介されている。

平安中期の武将・源満仲が「汝に鏑矢を授ける故、矢の行きつく所に汝住むべし」と住吉明神の神託をうけ、境内にある石に足をかけ踏んばり、矢に文を結び付け放ったと伝えられる矢文石がある。
 
 
 
近辺を辿れば満仲ゆかりの史跡はまだまだあるでしょうね! (sakura)
2009-03-09 15:20:59
武士、経営者、策謀家とさまざまな顔をもっていた満仲は
美女丸伝説にもあるように万一の時に血筋が絶えぬよう
末子を僧侶にしたりと、まだまだ地位の低かった武士の時代の
一つの生き様ですね。頼朝まで200年位前の物語です。
源氏一族にはルーツの異なるさまざまな源氏が日本各地に存在します。
中でも清和源氏は武家として発展し、その末裔の頼朝が
鎌倉幕府を開いたのでよく知られています。
足利氏は河内源氏頼信の曾孫義国の子義重が新田、
義康が足利と系図を辿ることができます。
鎌倉時代になると幕府の祈願所となり、
足利尊氏の遺骨も多田神社に納められています。
江戸時代になり源氏?と称した徳川家が多田神社を保護し
4代将軍家綱が戦国時代に焼けた諸堂を再建しました。
境内に並んでいる玉垣には源氏旧御家人」「徳川家」等と書かれています。
 
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