平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




源氏三代の墓は通法寺跡(大阪府羽曳野市)の周辺にあります。
頼信・頼義・義家のいわゆる源氏三代は、
河内国に地盤をもっていたので河内源氏とよばれます。
頼信の父満仲は、摂津の多田(川西市)に住み、多田荘を開発し
武士団を統括し、多田院(現・多田神社)を創設しました。
摂津は当時の農業先進地の上に、交通の要衝であり、多田銀山があり、
経済力を手にした満仲は、摂津源氏の祖となりました。
満仲は策謀に長け、藤原氏に取り入り摂津守となります。

満仲の二男頼親は大和源氏の祖となり、藤原道長の
護衛役にすぎなかった三男の頼信は、それまで鎮圧に向かった追討使が
失敗した「平忠常の乱」を鎮圧し、その名を天下にとどろかせました。
その功により美濃守となり、次いで河内守に任じられます。
河内守を二度歴任し、羽曳野市坪井町に館を構えました。
頼信は京都朝廷との
関わりを深め、その子頼義は京都にも邸宅をもちます。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は頼信の末裔であり、義家の子・義国の流れから
新田氏や室町幕府を開いた足利尊氏が出ています。




史跡:「通法寺跡」
羽曳野市壺井は河内源氏発祥の地として知られていますが、この壺井通法寺は、
長久4年(1043)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから
始まります。前九年の役(1051~62)の時、東北地方で活躍した源頼義が
浄土教に帰依し阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となり
源氏の隆栄と共に栄えました。
南北朝時代(約700年前)には、戦火にあい建物を消失しましたが
江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが
普請奉行となって再建しました。ところが、明治時代の廃仏毀釈により
現在のように、山門・鐘楼などを残すだけとなってしまいました。
なお、ここには源頼義の墓があり東方約200mの丘陵には
その父・頼信と子義家の墓もあります。 (現地説明板)


通法寺跡の鐘楼

通法寺跡に祀られている源頼義

◆国指定史跡「源頼義の墓」(968~1075)
源頼義は父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、
父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていた。
永承6年(1051)「浮囚の長」である安倍頼良(のち頼時)が
反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。
一旦は頼時を従わせたが、その時頼時とその子貞任がふたたび謀反を
おこしたため、出羽豪族清原の援を得て、
康平5年(1062)ようやく乱を平定した(前九年の役)。
また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、
その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に
八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。
承保2年(1075)7月13日、88歳でその生涯を閉じ、
通法寺境内に葬られたといわれている。(現地説明板)


◆「源氏館跡」
平安時代の後期になって、急速に武士が力を伸ばし始めた頃、
源満仲の三男頼信は河内守となって寛仁4(1020)年に
河内国古市郡壺井里の香炉峯に居館を構えて本拠地とした。
数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりである。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)、
前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)などの相次いだ
戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていった。彼らの子孫には、
鎌倉幕府を開いて将軍となった頼朝や、その弟義経などがいる。
頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると
伝えられている。今のところ、場所や規模などを知る具体的な
手掛かりはないが、武家の棟梁にふさわしい豪壮な屋敷が造られ、
たくさんの武士達が集まっていたことだろう。(現地説明板)


通法寺跡から東方約200m進むと、小高い丘の上り口に
「源頼信・源義家墓」の石碑が見えます。

石段を上って行くと源義家の墓があります。
国指定史跡「源義家の墓」(1039 ~1106)
源義家は父源頼義・平直方の女の長男として生まれました。
7歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。
前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。
永保3年(1083)には出羽豪族清原の」内紛が起こるが、
寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は
不動のものになった(後三年の役)。
この功績から百姓が土地を寄進しはじめ、寛治6年(1092)には、
朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。
また、永徳2年(1098)武将ではじめて院への昇殿(殿上人)を許された。
晩年、康和3年(1101)7月、次男対馬守義親が反乱、また三男義国が
嘉承元年(1106)6月に事件を起こすなど義家の中央官界での地位が
危ないものになっていった。最期は嘉承元年(1106)7月、
京の邸宅で死去し、この地に葬られた。(現地説明板)


源義家の墓

国指定史跡「源頼信の墓」(968 ~1048)
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。
20歳の時中央官界に身を置き、藤原通兼や道長に仕えた。
特に長元元年(1028)に勃発した平忠常の乱の際には、
追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、
頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。また上野・常陸・石見
伊勢・美濃などの国司を歴任しており最期に河内国司となる。
その時、河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え
河内源氏をひらくもとになった。
永承3年(1048)81歳の時、この地で死去し遺言により
通法寺の巽(東南)の丘陵に葬られた。(現地説明板)


源頼信の墓


附近には隆光の墓もあります。

下記の記事もご覧ください。
「壺井八幡宮」河内源氏発祥の地  
頼義が京都に構えた邸宅跡
源氏堀川館・左女牛井之碑・若宮八幡宮  
『アクセス』
「通法寺跡」 羽曳野市通法寺字御廟谷 近鉄電車上太子駅下車徒歩30分
『参考資料』
井上満郎「平安京の風景」文英堂 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館
「日本名所風俗図会」近畿の巻(1)角川書店
 

 

 

 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
いよいよこれから前九年・後三年の役のややこしい所ですね。 (yukariko)
2009-03-16 22:39:02
武士団の台頭のきっかけになる前九年・後三年の役の始まりでようやく聞き覚えのある名前が出始めますね。
でもこの辺からは敵味方とも枝分かれした一族が一杯出てきて何度読んでもよく分からなくなります。
確か平泉の藤原三代の清衡もこのへんでしょう?

そして八幡太郎義家の墓はここにあったのですね。

以前9/27「頼政道」で以仁王が新羅明神に再拝されたと書いて下さったっけと思いだしてもう一度読み直しました。
新羅三郎義光の墓は三井寺新羅善神堂近く。
彼の末裔は武田氏・北条氏…どの人の末裔も凄いですね。
この先が待たれます。

余談ですが…(笑)
河内国古市郡壺井里という地名は当たり前ですが、その後の「香炉峯」という名前に『おおっ!』

清少納言の「香炉峯の雪」を思い出したのですがこんな地名を誰が名づけたのかしら…と。
 
 
 
もう十数年前になるかも知れません… (sakura)
2009-03-17 15:12:28
NHKの大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」で奥州藤原氏の歴史にスポットを当て
放映されたので、Yukarikoさんもこのドラマをご覧になったかもしれません。

義経が奥州藤原氏を頼って下向する辺は別にして、それ以前の東北の歴史は
埋もれていた感があったので、タイトルだけ印象深く覚えています。
ところがドラマの筋書きはすっかり忘れてしまいました。
藤原房前が北家をつくり次の魚名が奥州藤原氏の祖です。
魚名の三代あとに藤原秀郷(俵藤太)が出て、西行法師(佐藤家)はこの流れです、まだまだ複雑になります。

新羅三郎義光を覚えていてくださってありがとうございます。
義光の墓は三井寺新羅善神堂近くにあって義家と同じように円い墳です。
彼の末裔は武田氏・佐竹氏と河内源氏の家系はおっしゃるように次々有名人が出てきます。

義光は後三年の役で兄義家が苦戦しているのを知り、駆けつけ兄を勝利に導きます。

「香炉峯」については地名事典でも引けば出てくるのかもしれませんが、
「河内名所図会」によると香炉峯は壺井の山峯をいい、
通法寺の釣鐘の銘も香炉峯とありますが、これらを誰が名づけられたかは分かりません。

 
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