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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

洗練された暮らしって、なに?

2013-09-07 | 暮らし

今朝、定期・古紙回収の時間を目前に、
送られてきて、そのまま封を開けていなかった情報誌を読んだ。

マンション販促のため、大手不動産会社が発行する情報誌で、冒頭に特集記事がある。

ひとつ目は、戸建住宅。
幼いお子さん二人と、素敵なご主人。
新築半年のお住まいには、開かれたコミュニティースペースを軸に、
地域の皆さんが集う。

美しい写真。
ベビーマッサージや、アロマ、体感型アート、ミニ講演会、落語会、などなど・・・
奥さんが興味のあることをいろいろ企画、発信しているそうだ。

じーっと写真を見る。
段差だらけで、二階や、階段、吹き抜け、ロフトの部分、幼い子供には、危険がいっぱい。
よくあんな危ない空間で、幼い子供を育てつつ、社交の場が持てるなあと、感心した。

前の住まいでは、60平方メートルのテラスハウスに、60人のお友達が集まり、ぎゅーぎゅー状態だったそうだ。
で、今度は、もっと開かれた空間に・・・をコンセプトに設計された。
60人て、それ、お友達?
お友達のお友達のお友達の、アカの他人?

まあ、なんでもいいが、社交家の奥様である。
しかし、乳飲み子と幼児二人を抱えて、よく、あそこまでできるなあ・・・と、感心の目を超え、疑いの目に。
子育てする時間は、あるのだろうか?
実家の親に面倒みてもらってるのだろうか???
あるいは、睡眠時間を削って、自分のしたいことを追及しているのだろうか?

所詮、雑誌に載るハナシは、いいとこ取りであるので、
必死に突っ込んだり、あまり真剣に読まないほうが、よろしい。


もう一軒、新築マンションを購入された若いご夫婦が紹介されていた。
購入する1年前にご結婚された、文字通り、美男美女の新婚さん。
絵になるご夫妻。子供なし。
写真には、室内犬を奥様が抱えて写っている。
敷地内外に散歩コースもあるとか。

絵が、キレイすぎて、(嘘っぽくて)・・・ため息。
で、記事を読むと、「サーフィン好きの旦那さんは、休日は、○○県にサーフィンにお出かけし、
奥様は、ご主人を笑顔でお見送り、ご自宅でゆったりお過ごしです」、となっている。
つまり、趣味が別々で、仲良く同じ時間をシェアしてないってことだ。
スタイル抜群、すらりとした俳優、女優のように、美男過ぎる旦那さんと、美女過ぎる奥様の、
とてつもなく美しいお住まいには、なんかなあ・・・
冷たいものを感じた。
子犬だけで、持つか?
結婚1年・・・破綻しないことを祈る。


住まいを売る仕事は、夢を売る仕事だ。
俳優業みたいなものか。
なら、辻褄は合う。

夢を現実にした後、どうやって、継続するか、
そこから、ほんものの生活が始まる。

 

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お笑い脳

2013-09-06 | 日々のこと

昨日、NHKで見た二つの感動。
ひとつは、真田広之。
チャレンジ、飛躍、かっこよすぎ。

二つめは、オリエンタルラジオのチャラ男じゃないほう。中田。
慶応卒のインテリ芸人が、映画プロデューサーに挑戦。
スタジオジブリで、映画「風立ちぬ」の宣伝を担当する。
新聞広告だったか。

キャッチコピーを考える。
大枠は、ジブリの主みたいな(宮崎駿さんによく似た)人が、ほぼ決定していて、
あと、中田にアイデアを出させる。
メインのキャッチコピーと、サブのキャッチコピー。
お笑いの仕事の後、深夜のお店で、番組デレクターだかを相手に、100の案を搾り出す。
中田の手法のようだ。

彼は、お笑いのネタも担当し、こうやって100ぐらい考えるそうだ。


はじめにリサーチ、資料を集め、次に分類、分析、求められる方向性を決め、
それから絞込み。削り出し。そして、創作。
中田はいつも、他人のアイデアでは気に入らず、自分ひとりで抱え込んで考えていたが、
人の意見やアイデアが、ヒントになると感じた様子。
それを、宮崎駿似であり、野坂昭如にも似ている、ジブリ主のおじさんから学んだ。
他人から才能、アイデアを引き出すのが、その人の才能である、と。

前に同じ番組で、どこやらの大統領の孫だかなんだかを売りにしている、ハーフのタレントが、
似たような「商品企画」の「お仕事」に挑戦していた。
プレゼンまでの道のりを描いていたが、ぜんぜん中田とはタイプが違った。
取り組みようが違った。
番組制作サイドの意図する見せ方のせいかも知れないが。
その孫タレントは、社員より早く帰り、あまり苦労も時間もかけず、考察も浅く、アイデアだけで、
ちゃらちゃらっと、やっていた(ように見えた)。
脳の回路が、違うのだろう。

人には、それそれ、違う脳を持っている。
考え方や、アプローチの仕方も違うし、やってきた経験があるのと、ないのとでは違う。
少なくとも、勉強をちゃんとしたことがある人と、ない人とでは、ぜんぜん違うと感じた。

勉強脳だからといって、ヒラメキがない場合もある。
秀才ではあるが、天才ではない。
いろいろ学び知っているだけに一歩、踏み出せない。
ありえないものが、生み出せない傾向にある。
そういう人は、勉強ができなくてもヒラメキのある人と組むと、補足しあえていいモノが生まれる。

感性と、思考、知識、応用、・・・どこをどう突付くか。
なにしろ、モノを生み出すお仕事は、大変なのだと、ぼんやり脳のわたしは、感じたわけである。


ちなみに、ちょろっとネットで調べてみると、
ある記事で、中田の奥さんが妊娠した報道で、多くのひどい、ネットの書き込みが、紹介されていた。
その記事では、「高学歴夫婦ということで、妬まれているのだろう」と解説されていたが、
世の中には、多くの妬む人が、そういう手軽で卑怯な方法で、他人を傷つけ、ストレスを解消しているようで、
とても落胆した。

 

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いろんな人が、いる

2013-09-05 | 日々のこと

昨日、行きの電車の中で、自分のブログの入力ミスを発見し、訂正した。
ケータイで、訂正すると、長い文章の場合は、ちょん切れてしまう。
で、ひょっとして・・・と危惧しつつも強行すると、やはり、ちょん切れていた。

ちょん切れていたのは、最後の1行だけだったから、まあよかった。
電車内では、自分のブログを校正したり、自宅のごとく爆睡したり、へんに和んでいるわたしである。

・・・・・

人には、いろんな種類がある。
話をしてみると、その違いがよくわかり、とても面白い。

どんな中身であろうが、バリアを張って、本来の自分、中身をさらけ出さず、
あたり差しさわりのない会話で済ます場合がある。
これは、お互い、距離がある。
相手のことがよくわからなかったり、遠慮だったり、近寄りたくないタイプだったり、利害関係を考えてだったり、
理性的に判断して、自分の中身を出す容量や内容を選択し、タイミングを考える。

そんなことは、ぜんぜん考えずに、自然に振舞う人もいる。
あるいは、タイプは違っても、共通項目を見つけ、盛り上がる場合もある。
ぱっと見て、キライなタイプには、心も口も開かない。

ただし、仕事の場合は、別。
そんなことをしていたら、仕事にならない。

・・・・・

中身があるのに、出さない場合と、中身がない場合がある。

中身を出したいが出さない、出せない、という場合と、ハナから中身がない場合がある。
母国語が違ったりすると、出せない、表現できない、うまく伝わらない。深い話はできない。
大人と幼児の会話には、会話範囲の制限がある。

中身がないというのは、あくまでも話し手同士の「共通の」中身である。
話しても、「は? 意味わからん」と、片付けられ、説明してもますます「は?」になり、
次第に、その手の話はしなくなる。
共通の話題は、具体的に身の回りに起こった出来事だけ。わかりやすいことだけ。
そんな話題でも、ない人に比べると、マシだが。

・・・・・

どんな話であろうが、相手に興味を抱いているか抱いていないか、それに尽きると思う。
理解できにくい話なら、質問したり、説明してもらったり、そこでコミュニケーションが生まれる。
ハナから、「わからん!」と言い放つのは、相手に興味がないということだ。
相手を理解しよう、知ろうという気持ち、熱意がない。

あるいは、延々と話していて、相手が、疲れてくる、退屈になってくる場合がある。
話をしている最中に、相手があくびをしたり、他の人に目がきょろきょろ動いたりすると、
集中力がなくなり、興味が失せていることがわかる。

その人の興味のある話題を振ると、また、目に力が戻ることもある。
主導権は、自分にあると、イニシアティブを取るのが好きな人と、苦手な人がいる。
わたしのような受身人間は、引っ張っていくのが苦痛だ。

二人ともお互い、受身人間であると、非常に、重苦しい時間になる。
カチカチカチと時計の針だけが動き、沈黙が増える。
これは、お互いにこころが、離れたり近づいたりしていて、
「誰か、どうにかして~」と音頭取りの出現を待って、SOSを出したくなる。

・・・・・

精神世界の話が好きな人は、いるが、
微妙に方向性が違うと、時間ばかりかかり、うっとうしくなる。
どんぴしゃり同じ精神世界に住んでいる人は、ほとんどいないと感じる。
精神世界のない人もいる。
あまりなにも考えずに日々を暮らす人々だ。
そのほうが、いい場合もある。

・・・・・

人間は多面的なので、どれかの面に一致すればそれでいい。
しかも、お互い動いて進んでいるので、ぴたっと一致したまま、ずっと離れないというのは難しい。
その時その時に、臨機応変に柔軟に、接点のある面から吸収できるものを吸収できればいい。
瞬間、瞬間に、影響を与え合い、受け合えたら、それでいい。
未来永劫に、永遠に、などと望むのは間違い。ありえない。

いろいろ難しいことを言っている人も、
なにも言わない人や、考えてない人と、結果的には似たような行動をとっている場合が多い。
考えても考えなくても、あまり変わらない。
考えずに直感で動いて、いい結果の人もいる。幸運な人だ。
だが、直感に頼ると、失敗もある。

・・・・・

短距離走が得意の人も、長距離走が得意の人もいる。
瞬発力と、持続力。
チャンスが来るまで辛抱強くじっと待ち、時機が来ると、ここぞと掴む瞬発力。
その思い切り、選択の勇気は、運命を分けたりする。

・・・・・

お腹が空いてきて、キー入力のスピードが落ちてきた。
さて、書きっぱなしの、結論なしで、ほったらかして、逃げます。

 

 

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学習効果ゼロの、効果

2013-09-04 | 日々のこと

わたしの日課は、NHKラジオ・フランス語講座が始まるまでに、ブログを書くこと。
時間が足りなければ、その後、加筆し(そんな、ええもんじゃないが)、アップ。
毎日毎日、よくまあ、ぐだぐだだらだらと、続くものである。

 

で、フランス語講座のほうは、音声は流れるが、ほとんど聞いていない。
テキストを開けて、時折、発音をカタカタで、ちょろっとメモするだけ。
アタマには、まったくといっても過言でないほど、入っていない。

聞いているだけ、とは、このことである。
月・火・水曜日は、基礎編、木・金曜日は、応用編。
木金は聞いても、虚しいだけなので聞かない。
なので、特定の時間に拘束されない木金は、とても嬉しい。

 


なにがしたいのか?
自分では、よくわかっている。

 

フランス語を聞いている自分が好きなのだ。
聞いたような、わかったようなフリをしているだけ。
で、その、どこが好きかのか、よくわからないが、・・・じつは、わかっている。

 

フランス語のテストもないし、習熟度や学習効果をチェックすることも、されることもないし、
誰もわたしのフランス語のレベルには触れることがない。
ただ、テキストは、溜まる一方だ。
薄っぺらいから、まあいいが、毎月420円の出費。週3日聞いて、1日35円。

 

カッコつけ。雰囲気だけ。中身なし。
これが、わたしの全体像、全身を貫く芯である。

 

(と、ここで、ラジオ開始。とりあえずは、ラジオのスイッチを入れ、ブログ中断)

 

で・・・
またまた自省の時間が始まった。
いつもいつもいつもいつも、わたしは、カッコばかりで中身がない。
理想ばかりで、実態が伴わない。
サボりなので、努力をとことん最小限にしようと、そんな、方向性の誤った努力をする。
つまり、ショートカットの方法ばかりを見つけることに躍起で、肝心の努力の内容は、いたって薄い。
要領が悪いので、目をつぶっても、ナビゲートしてくれる盲導犬の力を頼りにする。
杖がないと歩けない。

 

そうやって人の力を借りて、実際以上の見栄えを手に入れる。
実力もないのに、スキップ、飛び級をする。
見栄えはよいが、中身はスカスカ。
知っているのは、自分だけ。
ごくごく身近な人は、お見通しだろうけれど。
反面教師にしたり、あきらめているのではなかろうか。

 

そうやって手に入れた体裁、見栄え、見かけと、実際の自分がかけ離れているので、
ここでまた、ギャップに苦しむ。
苦しみもがいているうちに、実力が底上げされてくるのが、望ましい。
自分もそうであってほしいと希望するが、実際のところは、・・・???

 

悩みながら、進む。
進まないと、止まったまんまで、どうしようもない。
少しでも進めば、試行錯誤のもとに、また、方向転換できるベースを作ることになる。
目指す頂上が同じでも、登山道は、いくつものルートがある。
時間や体力、気力、お金、その他が続かない時は、どれかを間引く。早送り、スキップする。
あるいは、目指す山を変える。

うっすら霧が晴れるときもある。
そのときの、スッキリすがすがしさ、爽やかさといったら・・・
ボキャブラリー貧困のわたしには、うまく表現できないが。

 

・・・で、話は戻って・・・
(すみません、遠まわり、寄り道常習犯、確信犯)

フランス語・・・わかってないけど、わかったフリはしない。
ブログに「フランス語ラジオ講座を聞いている」と書いているけれど、
「ちんぷんかんぷんで、わかってない」、と追記する。
嘘は、書いてない。
だから、なんなの?
いえ、なんにもなくて・・・ただ、あんまりにも、フランス語、理解してないなあ・・・と。
馬鹿さ加減と、努力のしなさ加減に、自己嫌悪もあって・・・。
(また、堂々巡り)


では、なぜ、フランス語にこだわる?
仮にドイツ語であっても、ロシア語であっても、中国語であっても同じだ。
フランス語は、何年も聞いているので、乗りかかった船。(たとえBGMであったとしても)
フランスへの憧れ。
しかし、すでに、わたしは、もう、フランスには憧れていなくて、
スイーツ、グルメ、ファッション、アート・・・そういう、いかにも女性好み(特に若い)のものには、
アート以外には興味がなくて、といっても、アートもさほど興味がなくて、
・・・じゃあ、なんなの?
なのであるが、・・・いえ、乗りかかった船。(また・・・)
わたしは、パリに、もうひとりの自分がいなければならないのである。

 

なんのために?
パリと姉妹都市は、京都。
古都仲間。
しかし、わたしは、ぞっこん京都派でなく、むしろ、「なんじゃい、京都!お高くとまって!!」派。
京都は、小さい日本の中の、小さい、完成された街。ミニチュア観光都市。
そして、近すぎて、灯台もと暗し傾向にある。
しかも、なぜ京都? 
奈良だって、岐阜だって、金沢だって、・・・いろいろあるじゃない?と、へんに反発心がむくむく。
フランス人の「なぜパリ?」と、おそらく同じだろう。

ヨーロッパの古いものを大切にする精神と実践、斬新なものを生み出す土壌、
極端な歴史変化と、その後、
隆盛を極めた頂点と、その後・・・などなどに興味がある。
ぎゅっと凝縮されたパリは、都市自体が博物館、テーマパークのようなもの。
オモチャ箱の中を見て回るにも、じっとするにも、なにかと便利。
両極端を併せ持ち、同時進行しているわたしにとって、興味は尽きない。

 


大脱線。
このあたりで、寝ている人、すばやく他のブログに移行した人は、98パーセントに上ると思われる。

 

フランス語の話は、終わりにし、ブログも同時に終了します。
寝ている方は、そのままお休みください。

 

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好みのタイプ

2013-09-03 | オトコとオンナ

異性の好みについて。

これは、何度か書いたかも知れない。
そのときは、本気で書いているのだが、なにを書いたか忘れた。
なので、同じことを書いているのか、あるいは、ぜんぜん違うことを書いているのか、
自分でも確信が持てない。

そういうのって、無責任で、だめですが。
しょせん、「異性の好み」なんて、一方通行、言いたい放題であり、それがどうした?の世界なので、
誹謗中傷をしなければ、よしとしよう。

で、前置きが長い・・・わたしの、異性の好みは・・・。

好みが、・・・ない。
驚きの実態である。
まったくない、と言ってしまうと、言い過ぎかもしれないが、
キライなタイプ以外なら、なんでもOK。
と、ここまで書いて、最近、書いたことがあるなあ・・・と思い出した。(キライなタイプが多いと)
まあ、いい。
今回は、異性の好み、つまり、「男性」としての好みに言及してみよう。

性格は、二の次で、見かけ、雰囲気、オーラだけについて。
これは、一般的な人気俳優とか、素敵な人であれば、当然ながら、ぜんぜん否定する気がない。
そういう人たちは、人よりカッコいいから、美点の延長で俳優になっているのだから。

一般の人でも、カッコいい人、これは、素直にカッコいいと感じる。
カッコ悪い人は、カッコ悪いと感じる。
それだけだ。

カッコいい人が、好みで、カッコ悪い人は好みではない、と仮定すると、
世の中に多くいるカッコ悪い人は、男性も女性もモテなくて、恋人もできなくて、結婚もできないことになる。
でも、そんなことはないようなので、それなりに、他の要素を加味して、カップル誕生となるのだろう。

自分を顧みて、自分に合う人をチョイスする。
身の丈に応じた人を選ぼうとする。
これにアンバランスが生じると、相手をゲットできずに、武士は食わねど高楊枝になる。
絵に描いた餅では、お腹が減るので、適当なところで妥協する。
最高を目指すものの、無理なら、少しずつレベルダウンしていく。

わたしは、決して美人ではない。
なので、ハナから美男は視野に入れていない。
もし、美男をゲットしたければ、それ相当の、自分が不足している分を追加しなければならない。
かなりの努力が必要だ。
尽くすだの、愛情を目いっぱい掛けるだの、知恵を駆使するだの、お金や権力でモノいわせるだの、
・・・
お金や権力はないので、せいぜい、知り合いのところに就職のお世話の口利きをする程度だが。
しかも、いまや、その力も及ばず。

美人でもなく、プラスアルファの魅力、力もない自分が、カッコいい人を求めたところで、
たんなる片思いになるだけで、つまらない。
わたしは、部屋の壁に好きなスターのポスターを貼るタイプではない。
コンサートで、キャーキャーいうタイプではない。
実際に具体的なお付き合いがない、自分に、関わりとして、おぼよす実態のないものには、興味を抱かない。
ああ、カッコいいね、あの人、と、いう程度だ。(ああ、今日は、暑いね、涼しいね、というノリと同じ)

自分から好みがない。自分から発するものがない。
無意識であったとしても、挨拶するときに、にこっとするか、にたっとするか、ぶすっとするかで、
若干、そういう反応は、自分が持つ「好み」のバロメーターとなりそうだが。
仮に好みがあったとしても、相手にその気がないなら、即、あきらめる。
執着しない。
太陽の光を受ける地球みたいなものだ。
受身一筋。

で、・・・
少々、好きでなくても、相手が好いてくれたらそれでいい。
ご飯が美味しくなくても、お腹が膨れたらそれでいい、という、戦後間もない頃のような状況。
べつにカラカラに枯渇しているわけではないのだが、こだわりがない。
好かれることに対しても、こだわりがない。

カッコ悪いより、カッコいいほうがいいが、べつに、どうってことはない。
男であろうが、女であろうが、子供であろうが、年寄りであろうが、
美しいものは美しいし、そうでないものは、そうでない。

書いていて、ふと思った。
これって、異性分野を卒業しているのだろうか。冷め過ぎ。
干物というわけでもないとは思うが。

でも、いちおう、女であり、
ちょっと不思議な謎の生命体みたいになっている。

・・・

風景画がいかに美しくこころを和ませてくれても、実際の風景に勝るものはない。
逆の場合もあるけれど。
現実より、夢の世界が一番で、空想が広がり、自由に描けるし、傷つかない。
だが、そこから一歩も出ないというのは、あまりにも哀しく、侘しい。


わたしは、見た目よりも、お互いの関係性を第一とする。
いくらカッコよくても、関わりがない人なら、いないも同然。

見た目は、中身を包む、包装紙だ。
そして、包装紙がいくらよくても、開けてみたら、なああああんだ、なんて、そういうことも大いにありえる。
どんなにカッコよくても、中身がイマイチなら、まったくイマイチだ。

最近、包装紙から中身を想像できるようになってきた。
この包装紙は、凝っている、高そうだ、内容もお高い、上質なものに違いない。
だが、中身は、価格comで選んで取り寄せたモノと同じだったり。
開けるまでの期待感。
(包装紙を楽しむ楽しみ方もあるが、時間、労力、モノの無駄、反エコという見方もある)
過剰包装お断り、の、むき出しの商品もある。
味気ないかも知れないが、中身で勝負。


ま、なんでもいい。


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たわいないこと

2013-09-02 | 趣味

わたしは、どーでもいいことを、ちまちま、延々と、自分が納得できるまで考え尽くす。
で、納得できれば、ああよかったね、となり、納得できなかったら、明日に課題を持ち越す。
あるいは、考えている途中に眠たくなったら、次の日、また、一から考える。
つまり、・・・実は、なにも結んでいない。

実を結ばないことを、いかに自分で納得するか、自分を納得させるか、
虚しくも、ばかばかしい作業。
でも、好きだからしかたない。哀しい習性。

あーでもない、こーでもない症候群。

例えば・・・

自分がシャカリキになっていることがある。
その分野で、どうしても自分の思いや理想と、現実がかけ離れている。
理想のパターンをすいすい涼しげにやっている人を見ると、悔しい。
(実際は、目に見えない血の滲む努力をしていたとしても。いえ、努力しているに違いないとしても)
なにくそ~となるのだが、自分は、頭打ち。追いつける見込みは、まったくない。
(おそらく、器が違うのだろうけれど)

で、どうなるか・・・。
自分を肯定し、それ以外を否定する。

なんだい、あんなの。
お金と時間をたっぷりかけた、暇人、ブルジョワの道楽じゃないか、
だとか、
遊びほうけているから、家庭や子供が、迷惑、被害を被(こうむ)っているに違いない、
他の義務(仕事や家事など)をおろそかにしているんじゃないか、
だとか、
趣味の面は素晴らしいけれど、他の分野は、たいしたことないね、
だとか、
負けている分野ではない方面のケチをつける。あら捜しをする。

・・・・・

ネガティブ・キャンペーン。

自分より上の人を引き摺り下ろして、ちょっとは、せいせいした気分になる。
一点にでも秀でていることは、とてもアッパレなことなのに、
他の並レベルの方面を引き合いに出して、イマイチだね、と、いう。

例えば、
文芸に秀でている人に、スポーツがダメね、だとか、
見目麗しい美男、美女に、でもアタマが、ね~・・・、だとか、
眉目秀麗・才色兼備な人には、でも性格がね~・・・だとか、家庭が不幸だね~、だとか、
体が弱いみたいだね~、だとか、
仕事のデキル人に、でも家庭がね~・・・、だとか、
なんでもいいから、ありとあらゆる、重箱の隅をつつくかのごとく、マイナス点を発見し、
拡大する。
いわゆる、出る杭は、打たれる、というもの。
このあたりの有名人レベルになると、打つ牽引役は、マスコミの仕事になるのだろうけれど。

一般人で、自分の生活圏の範囲内で生活している人は、そこまで、思われることはないにしても。

相手を引き摺り下ろすしか手がないのは、自分が上がれないとわかりきっている場合だ。
自分は頭打ち、歴然とした差は、埋めようがない。
そういう時は、目標を変えることだ。
しかし、目標を下げる、となると、またまた自己嫌悪に陥り、いかにも敗北感が強く、プライドが許さずムカつくので、
方向転換という、聞こえのよいものに変える。

まあまあ、たかだか趣味のことで、そんなに目くじらを立ててどうする?
プロじゃあるまいし。
楽しければ、いいじゃない。
という声が聞こえる。
が、その声は、負けた人間が、レース外から、試合を放棄し、努力まで放棄し、
一生懸命頑張っている人も、試合中止をさせるかのごとく、
まだ進行形で、緊張感で張り詰めている舞台を、シラケさせ、
結果的には、自分のところにまで、頑張っている人を引き摺り下ろしていることになる。
自分は脱落していても、同じ条件にリセットしてしまえば、勝ち負けがはっきりつかず、気持ちは、楽になることだろう。

そういう人は、試合に参加せず、応援席にいるべきだ。
選手と同じ目線、空間にいるべきでない。

・・・・・

つまり・・・
自分は、負けたんだから、応援席に回るか、あるいは、種目変更をして出直すか、だ。
種目変更しても、また厚い壁。
その時は、舞台を降りて、別の舞台に移る。
すると、そこには、似たような、元(もと)落ちこぼれの人がたくさんいて、
「おい、あんたもかい・・・」と、
お互いの挫折感もよくわかり、和やかに、おだやかに、過ごせるかも知れない。
あるいは、元選手も、リタイアして、その舞台に降りてきているかも知れない。
どっちみち、第一線ではなく、なんらかの、わけありB級品以下の集まりだ。
そこが、自分にとって、抵抗なく気持ちいいものであるなら、それはそれでいい。
だが、落ちこぼれ軍団、と、自分で思っているなら、気持ちは決してよくないだろう。

ゆるやかに、自分の力に沿って、目標や課題を下降させる。
この潔さがないと、いつまでもしがみついているだろう。
そして、枯渇感、虚無感、不満足感、充実できない日々を悶々と送るだろう。
それを耐えて、見事乗り越えて、目標を達することができるのならまあよいが。
乗り越えることができず、目標を無理やり変更する羽目になる屈辱感に、自分が耐えられるかどうか。

二度とその舞台には近寄らないか、
冷却期間を置くのか、別の方面に切り替えるのか、
あるいは、吹っ切れて、にこやかに、楽しくやっていくか。

・・・・・

ま、各自それぞれに、やっていけばいいのでは。

(いきなりの、結論。
突き詰めるのが、面倒になってきた・・・ああ、疲れた)


性格や考え方、生き方、
時間配分、エネルギー配分、ひとそれぞれ。
好きにやればいい。


 

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見せびらかしの果て

2013-09-01 | 暮らし

ものすごくカンジ悪いことを書く。

キレイにうわべを整えて書いてもいいのだが、わたしの腹の中が、黒く、カンジ悪いので、
そのまま書く。
たんに、今日は、そんな気分だ。
自分のカンジ悪さ、汚さ、醜さと向かう、そんな気分のときもある、
たんなる気分屋なのだが。

おんな同士の争いが、いかに醜くて、意味がなくて、内容が浅はかで、つまらないか。
これは、客観の立場で、傍観者として見ている分には、どおってことは、ないが、
いざ、自分が巻き込まれると、自己嫌悪に陥る。

何年か前にも蝶ブログに書いた、ある女性。
ご近所に越してこられた、このお方。
わたしの娘と同じ年の娘さんがおられ、彼女はとても優秀だそうで、それがご自慢のタネ。
英語検定の何級だかに合格されたとか、鼻高々におっしゃっていた。
大学も、どこだったか(聞いたけれど忘れた)、どこやらに内定(推薦入学)が決まっている、
と、これまた、ピノキオの鼻。

さらに、「パパが、パパが・・・」と、鼻の奥から甘~い声を出して、パパ自慢、ラブラブ自慢。
さらに、時には、夜の都会のバーに単身、出向き、ひとりグラスを傾けるとかで、
自立した、いいおんななんだそうだ。(これは、ご近所の、別のある方、談。また聞きです)
さらに、ご自分で匂わせるには、お金持ちらしい。

それはそれで、いいことだ。
娘が優秀、家庭が円満、家がリッチ、自立した、いいおんな、
いいことだらけである。

鼻につく、という点を除けば。

鼻につくのは、なぜか?

やはり、ご本人の説明の仕方に、問題がある。
説明しなくても、勝手に、匂ってくるのなら、まあよい。
わざわざ自分で強調するから、鼻につくのである。

しかも、歴然と、あっぱれ、こんな身近なところに、そんな人もいるのか・・・
というぐらいの、客観的要素なら、圧巻である。
が、・・・あきらかに、人に自慢するような内容、レベルではない。
しかしながら、
「それが、どうしたの?」
と、言う人は、まわりにはいない。

へえ~、よかったね、と、いたって、クール。
自分の品位を保ちたいから、いい人でいたいから、人の悪口とか、本音とか、言わない。

人がどう思っているのか、などというのは、単なる憶測の世界であって、
ご近所の輪にも、後からながらも飛び込んできて、積極的な明るい方だった。


何年かして、彼女は引越して、出て行った。
家も売りに出されたとか。
離婚したらしい。

へ~、と、わたしは、とても意外なような、
それでいて、そうだろうなあ・・・と、へんに納得するような、
こんな日が来るだろうと想像していたような、複雑な気持ちになった。


虚栄心を満たそうとすると、無理が生じ、いずれ破綻をきたす。
自然な、あるがままの姿でいいのに、それより良く見せようとするのは、虚栄心の表れだ。
虚栄心は、向上心とは、違う。
向上心は、自分が上がって行こうとして努力すること。
努力内容も見直し、方法を試行錯誤する。
虚栄心は、いつまでたっても努力が追いつかず、現実に不満があり、努力を放棄した末の境地。
実際の自分、現状に客観的に向き合わない、奢りがある。謙虚な姿勢の反対。

向かおうとするのは、現実より上であるが、努力をする方向性が間違っている。
あるいは、努力の内容が、ずれている。
うまくいかないなら、原因を探求し、原因をひとつひとつ修正し、消していく努力をすべき。

虚飾の世界にあこがれているだろう。
もっと地に足つけるべき。
自分の実力をちゃんと見据えて、自分のできることを模索すべき。
実力がアップする想定で、次の計画、目標を立てても、実力が想定以下にしかアップしない場合は、
微調整、見直しが必要だ。
その作業をする時間が待てない、即、輝かしい自分でありたい、と感じるのだろう。

ましてや、自分本人のことではない、子供の学力や、夫の経済力は、妻が、誇らしげに見せびらかしたとすると、
その瞬間、周りから見ると、色あせて見える。

財力や肩書きなども、リタイアしたり、社会制度が変わったりすると、力が及ばなくなったり、減少、もしくは、なくなる。
そんなものに、しがみついている人は、哀れだ。
別の確固たる芯を自分の中に、築くべきだろう。

「定年後のサラリーマンの生き方」のような本を読むと、あれこれ、お偉い方々が、いっぱい書いておられる。

 

その芯を、試行錯誤で、築き、磨き上げ、完全に完成させることは、
一生かかってもできないことだと、わたしは思っている。

未完の人生。
完成しても、しなくても、待っているのは、「死」だけだ。
「死」イコール、いかに、生きるか、だけど。

 

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