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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

スロー進化論

2020-05-25 | 読む人々には興味ない話
わたしのブログへの閲覧数上昇は、コロナ禍ステイホームによる人々の暇つぶし影響と見られる。
共通課題のコロナが徐々に落ち着くと、閲覧数も元のようになると予測している。

わたしが毎日見に行くブログがある。
その一つは、アートな写真に見惚れ、凛とした文章で魂を毎回抜かれてしまう、憧れのミュンヘンブログ。
ただし、エネルギーを吸い取られた読後は自分のブログを書く気にはなかなかなれない。
他にも、まとめて読みに行く、長年のこころの友のブログがある。
このブロガーさんは、本人にもお伝えしているが、わたしは友達認定を一方的にしている。

さらに、かなり前からの、たぶん、わたしがブログをスタートした初期の頃から旧知のブロガーさんがいる。
じつは、わたしはそのブロガーさんに毎回、更新モチベーションのスイッチを押されているような気もしている。
だが、そのブロガーさんのアクションは、目や脳からではなく、指先運動の日課によるものであり、ひょっとしてわたしが勝手に受ける錯覚、思い込みかも知れないと思う瞬間もある。
しかし、モチベーションなんていうものは、根拠や実体なんか無くても、勘違いでも何でもいいんだと妙に納得したりする。

今日のミュンヘンブログに書かれていたような、お会いしたこともない、声を聞いたこともない、でも長年、文章だけでやり取りして、その人のイメージを作り上げることってある。
わたしがインターネットに初めて触れたのは32年ぐらい前で、その頃からの知り合いが数人いて、現在も年賀状一枚で繋がっている人もいる。
ちなみに、初めてインターネットで繋がった記念すべき第1号の人は、香港の中学生だった。

パソコン通信と呼ばれていた時代。
愛好者は、通信系、パソコン系の仕事に携わっている人や、著作系の趣味のある人だった。
著作系の人は、パソコンからではなくワープロから通信していることもあった。
仕事以外での家庭パソコン普及率もあまり高くなく、SNSも一般的でなく少ししか存在していなくて、わたしが利用していた代表的な大手ネットも会員は30万人ぐらいだった。
よく考えるとインターネット歴は、人生の半分近くを占めている。

ただし、パソコン画面はモノクロで、英数文字を長々と無機質に打ち込むもので、今のように画面にアイコンが現れ、ひょいっと掴んで移動させたり、一瞬で画面が躍動的に踊り出したり、とは程遠いものだった。

当時、大きな薄いペラペラしたフロッピーを差し込むと画面がガシャガシャと立ち上がり、文字入力を通しておしゃべりしていくうちに、会話でインプットした情報が蓄積され徐々に賢なっていく女の子のゲームソフトみたいなものもあったが、黒い画面に白い文字で延々とおしゃべりを続けるだけ。
動画も声も、なんにもない、なんの愛想もないものだった。
また、圧縮ツールみたいなものがあって、圧縮して送られたものは、決められた英数文字を入力して解凍したり、、、何かしらの知識がないと操作できない、めんどくさいものだった。
スマホで指くるくる、瞬間操作とは、隔世の感。

というように、インターネットは、当時はそういう技術系の人々と文章系の人々が交差していた。
真ん中あたりの中間の人はいなかった。
パソコン普及率も今とは違っていた。
今はスマホがあるから、あまり固定型パソコンは個人的には需要がないのではないかと想像する。
仕事ではノートパソコン、タブレットが多い?
小学校でもパソコン授業が取り入れられているし、自宅からのオンライン授業も更に充実させるのが喫緊の課題とされている。

と、話はまたまた逸れて、どんどん好き勝手に流れていく、、、。

メールなどの文章や、ブログだけで接していると、相手のイメージをどんどん固めていく。
今はスカイプやオンライン会議もあるから、姿、表情、声もリアルタイムにわかるが、それを利用しない場合、人物像は想像を積み重ねて作り上げる。
考え方や感性は文章でわかるが、実際の3Dでのライブ感は、匂いや体温、空気はまた違う。
まして、感触となると益々、、、。

コロナ禍は、そのあたりを分断させるわけだが、自然が成した禍だとは思えないぐらい、現在と未来の我々に課題、命題を投げかけている。
いくらコンピュータ技術や科学が発達しても、出来ることと出来ないことがある。
とは言いつつ、会ったこともない人同士の子供を誕生させることだって出来るのだから、科学技術は恐ろしい。

科学を盲信して、すごいスピードで突き進む人類に、警鐘を鳴らしていると感じた人は多いだろう。
何が一番大切か、思い知らせるための、神様からのお知らせメッセージか。
自然災害や未知ウイルスなどなど、、、どんなに人類が全知全能の神のごとく進化しようが、全て思い通りには出来ない弱さを思い知る。

今回のコロナ禍で、こういう時に耳にタコが出来るぐらい、あちこちで聞く、ダーウィンの言葉。
「生き残れるものは、強い者でも賢い者でもなく、変化に対応する者だ」
改革を訴える政治家やビジネス界で好んで使われているらしいが、本当の意味でのダーウィンの進化論とは矛盾していて的外れだとか。
科学以外にも社会的にも利用されたり諸説あるので、真意の程は、各自研究していただいて、と。

これからの時代は、「変化に対応」がキーワードのようだが、これは効率的、合理的の真逆らしい。
ということは、、、超、自分に有利に解釈すると、、、正に、何の役にも立たないスローなわたしの出番か!!!
じゃ〜〜ん!


なんて、言葉遊びはそれぐらいにして、活動的すぎるチビッコたちから解放された喜びを暫定的ではあるが、今、ひしひしと味わっている。
わたしにとって、取るに足らないどうでもよい建設的ではない無駄なことに(たくさん羅列した、、、)思いっきり時間を浪費できることは最高の贅沢であり、喜びである。

さて、材料を買ってきては作り、買い足しては作り、冷蔵庫を埋めては空になり、埋めては空になり、、、の繰り返し「おさんどん」料理当番から、とりあえず解放され、今から、お一人様カップ麺を食べよう。
この手抜きのチープな食べ物が大好きなわたし、、、変化には対応できるかも?
いや、栄養が偏って健康寿命を縮めるのかも知れない。