昨日の怒涛の一日が過ぎ、ほっと一息。
めちゃくちゃ可愛くて、めちゃくちゃ煩くて、めちゃくちゃ面白い、チビッコ軍団。
末孫オシメ姫Cと、真ん中孫Bのやり取りが、また漫才グランプリ大賞のよう。
C「貸して」
B「貸さない」
C「どうして貸してくれないの?」
B「貸さない」
C「なぜ貸さないの?」
B「貸さない」
C「どうして?って聞いてんの!」
B「貸さない」
C「なんで聞いてんのに言わないの?」
B「貸さない」
C「なぜ貸さないのか聞いてんの!」
B「貸さない」
C「なぜって聞いてんの!」
B「貸さない」
まわりはウンザリして、Bに、「なんか言ってやりなさいよ」と勧めるが、Bは、ボキャ貧。
こういう大人、こういう男女、いるよなあ、、、と。
大人なら、寡黙なBが、いきなり、ボカっと殴ったり、モノを投げたりするんだろうな。
こういう外交の仕方をする国々ってある。
ボタンは掛け違っているが、お互い、説明も説得もせずに、自分の要望ばかりを繰り返す。
求める答えを得るまで「なぜ?」「なぜ?」と畳み掛ける。
「なぜ、しないの?」と。
交換条件や歩み寄りの提案なしの、にらみ合いが続く。
ちなみに、この外交手段を強行するオシメ姫は、その時もオシメがしっかり仕事をしていた。
彼女は頭と口は連動しているが、どうもオシメ部分へのシナプスは遮断されているようだ。
しかし、このギャップ。
笑い話が段々、笑えなくなってきた。
保育所でオシメを外す訓練をしてくれるため、上二人孫は保育所のおかげで難なくオシメが外れた。
が、末孫Cはコロナ休園のため、一旦は成功したものの、またぶり返し、家庭でその訓練仕上げを託された格好になる。
わたしの子供たちは、保育所に入っていなかったため、わたしが自宅、家庭でトレーニングして外したが、今は、保育所のお世話になっているようだ。
親の子育てのあれこれをごっそり委ねている。
今、自宅で過ごすチビッコたち、親ごさんは、日頃、保育所の恩恵をいかに受けていたか、しみじみ実感していることだろう。
誰か大人がやらないと、トイレトレーニングは自発的に自動的に出来るものではないようだ。
親自体、保育所任せだったので、トレーニング法を知らないことに驚いた。
親(わたしの長女)は、「わかっていながら家庭では手抜きして、トイレトレーニングしてないから」と、反省しているが、なかなか手が回らないのが実情。
なぜ、あんなに頭も回り口も立つのに、まだオシメが取れないのか不思議だったが、そういうことだったのかと背景を理解した。
わたしの子育てでは、トイレトレーニング中は、動物園の如く、どこかしこ、ジャジャ漏れだった。
わたしの主義は、子育て中、まだ子供が動物の間は、家は動物園にしよう、というものだった。
家具などを傷つけても、汚しても何をしてもいい、子育て期間限定の住環境にしていた。
優雅に暮らすための住空間は、家まるごとお取り置きしていた。
わかりやすく言うと、子育てが終わってから、自分の趣味や好みを反映するような生活をしようと計画していた。
だから、子育て中は、動物園の飼育係。
今、孫がうちに来るとソファや椅子、フロアなど、汚したり傷んだりしないよう、注意しなくてはいけないヒヤヒヤ状態は、こころが苦しい。
子育て中のイス座面は全部ビニール製、タンス、テーブルなどは、子育て後、捨てることを視野に入れて選んだ物。
(たまたま夫が転勤時期のため、住居も転々としていた)
それは姑のアドバイス、教えを取り入れ、わたし流に。
子供を叱る環境に置かないこと。
放牧。
ある程度ものがわかれば、教える。
動物時代は、動物のままで自由にやらせた。
たまたま、子供たちがお利口さんで大人しかったからだろう。
(長女に言わせると、彼女がしている今の子育てと比べると、わたしの子育て時期はむちゃくちゃ規制が信じられないぐらい甘いとのこと)
ママ友たちに、わたしが子供を怒っているのが想像出来ない、と言われたが、その通り。
怒る理由がない。
ただ、命にかかわるようなことは当然、叱る。
が、幸運にもそういう機会はなかった。
(いや、幼児の病気で重篤な症状を見逃しかけて、あわやということもあった)
ちなみに、蛇足だが、、、
子育て期はモノは使い捨て感覚である一方で、お宮参りの着物など、冠婚葬祭的なものは用意してくれたので、今もそれを使っている。
夫が着た着物を子供に着せるのは嫌だという妻もいるようだが、うちの場合は、娘(自分)が着たものを孫(子供)に使うことは、娘も娘婿も娘婿のご両親も嫌がっていないようだ。
エコである。
話を元に戻す。
子育ての話。
この子育て、じつは、奥が深い。
わたしは、当時、専業主婦だったから当たり前のように家庭で子育てをした。
しかし、娘世代は、共働きなので保育所のお世話になる。
教育も、時間とエネルギーがある専業主婦が家庭でみっちり力を入れるのと同じようにはいかない。
孫たちの勉強への取り組み温度があまりにもわたしの子供たちと違うのを見て驚いていたが、それは致し方のないことだ。
家庭に「家庭専属の家政婦さん」兼「小間使い」兼「家庭教師」がいない、不在なのだから。
その家庭内労働力が足りない分は、親の収入として加算される。
収入と同時に昔流の夫婦間での経済的主従関係は解除される。
専業主婦がいると、家事を家庭内でシェアする文化が生まれない、わたしとしてはマイナス要素も生まれるが、一方が立てば他方が立たないのは致し方ない。
が、勉強にひと昔前のように躍起にならなくても、今はAI時代なので、求められる習得・学習内容は変化しているはず。
エッセンシャル・ワーカーは、今回のコロナでまた見直され、社会の必要不可欠な存在であることが、再認識された。
AIやオンラインで出来る職種、層こそが、ヤバい。
(この「ヤバい」という単語、末孫が連発するが、わたしは眉をひそめている)
昨日のニュースで国際政治の専門家が言っていたことをパクったのだが、かなりわたしとしては、納得している。
まさに中間層、ホワイトカラーには警鐘。
特殊分野は別なので、その特別分野を目指せば良いのだろうけれど、もうわたしは子育ては終わっているし、就労者としても対岸で見ているだけだ。
というわけで、、、
いきなり〆にかかる。
過去、現在、未来をごちゃっと濃く詰め込んだ、孫たちとのステイホーム、ゴールデンウィーク。
それにしても、ああ、賑やかだった。
※写真は次女の手作りシフォンケーキ