家族
2013-12-20 | 家
核家族が一般化してきた。
嫁・姑の陰湿なイジメ、確執なども、別居することによって、マシに。
お互い、距離を置いて生活する。
気に入らないことは、見て見ぬふり。
なにかあると、合流する。
いくつもの核家族が集まった、ゆるやかな大家族が理想だと思う。
4世代交流。
4世代で同居している家族も何家族か知っている。
なかでも、絶妙な設計により、玄関だけは同じだが、あとは、どの世代も顔を合わせない、
工夫された住空間を保っている大家族もいる。
都会に近い地域においては、珍しい。
おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、長男、長男の嫁、孫、次男。
4世代8人家族だった。
はじめてお邪魔したときは、その知恵、設計力に唸った。
普通の一戸建てに、3つの水回り(台所・浴室洗面・トイレ)が、個別に備わっていた。
2階建てだが、階段は2つ。
両親エリアに属する次男の部屋は、両親エリアからしか上れない階段で空間を上下に分け、
うまい具合にプライバシーが守られていた。
1階は、両親エリアと祖父母エリアに分けられ、
2階は、若夫婦家族エリアと、両親エリアの一階から階段で続く、次男の部屋。
マジックショーのごとく。
単純に1階と2階を老夫婦家族、若夫婦家族に分けておられるケースもある。
老夫婦の1階には、介護の必要がある、おばあちゃんの部屋がリビングに隣接して設けられていた。
これまた4世代同居。
お互いに気配だけを感じる。
用事のあるときは、電話かなにかで連絡する。
電気ガス光熱費は、別々。
つかず離れず。
(※現実的には、経済的事情や仕事の都合などで、そんな良い立地や、家の広さを確保できない家族が多いだろう)
通い婚ならぬ、通い実家(夫の実家、あるいは、妻の実家)、というのもある。
核家族夫婦が子供を連れて実家に通う、またまた核家族の親、子供、全員で孫を連れて、実家の実家に通う。
実家の実家には、おじいさん、おばあさんがいる。
4世代である。
(※これまた、現実的には、各世代のそれぞれの住まい、世帯を独立して維持できるかどうかという、人的、経済的問題もあるが)
だが、忙しい子供夫婦が、そう度々、実家に通うというケースは稀だ。
よほどの求心力がないと実現できない。
この求心力は、何か? 誰か?
長老となる人か。
札束だけをひらひらさせて、帰ってきたら、あれをあげる、これを食べさせる、それを買ってあげる、なにをしてあげる、
などという現ナマ作戦もあることだろう。
が、ご機嫌をとったり、とられたり、それだけでは、見え見え、ギスギス、どろどろ、逆効果の場合もある。
こころの求心力が必要だ。
(しかし、今のご時世、経済的、物質的援助ゼロ、労力援助ゼロで、求心力を発揮するには、相当の確固たる揺ぎない絶対的なものが必要だが、
新興宗教とか、マインド・コントロールとか、そういうのは、わたしは興味がない)
・・・
なぜ、わたしが、4世代にこだわるかというと・・・
赤ん坊が生まれる。
お年寄りがこの世を去る。
赤ん坊が少しずつ成長する。
お年寄りが少しずつ衰える。
こういう過程を自然に知るということは、とても大事だと感じるからだ。
病院で生まれて、病院で死ぬ。
生も死も、プロに任せっきり。
生々しさに、触れずに生きていると、人間として、なにかが欠如しているような気がする。
赤ん坊がひとつひとつ、なにかが出来るように、老人は、ひとつずつなにかが出来なくなる。
その過程を同時進行で見続けるというのは、とても生死の意味を見つめる、重大な経験だと思う。
老人のボケや粗相を叱ったり、嘆いたり、邪険にしたり、いらいらするのは、経験のない若い人なら仕方がない。
自分には考えられないようなことが起きると、理解不能になる。怒りもこみ上げる。
しかし、サルがだんだん4足歩行から2足歩行になるように、
人間も、徐々に成長し、徐々に衰退し、ついには死を迎える。
こういうことを日常の一部として経験できることは、大きな幸せである。
人間は生まれて、そして、死ぬ。
喜びも悲しみもセットである。
赤ん坊を世話している、若い母親が、傍らで、自分を世話してくれていた祖母が、どんどんダメになっていく。
孫の世話をしている熟年の人が、一方で、高齢の母親の世話をする。
日の出を見る勢いの新しいエネルギーを受けつつ、
と、同時に平行して、かつての日の出を終結させようというエネルギーの収まりどころのお手伝いをする。
この構図は、3世代では経験できない。やはり4世代必要だ。
もっと若い、ひいばちゃんも、いる。
ひいばあちゃんが、あの世に行きかけるころ、ひ孫はもう高校生以上、もしくは成人になっている。
子供と孫が、ひいばあちゃんの最後あたりの「人生レース」にお付き合いすることになる。
子供は、老年、孫は中年、ひ孫は青年。
5世代にわたることもある。
新しい命の輝きがあってこそ、老人は安らかな生活を送ることができる。
自然に枯れて、自然に土に還ることができる。
何事にも執着し、邁進することはよいことであるが、限度を逸して、闇雲にしがみつくのは老醜だと感じる。
生きることに対しても、とは言わない。
生きる気力をなくすと、なんにもならない。
「生きること」にしがみつくのと、「生きる気力がある」のとは、違うと思う。
単なる言葉遊びで、表現方法だけが微妙に違うだけだと、感じるかも知れないが、
・・・
・・・どう説明していいか、よく、わからないのだが。
・・・
多世代家族をつなぐ求心力が何か、である。
若い世代は、自分たちのことで精一杯。
年寄り世代に首を突っ込みたくないだろう。
中心となる人物がいる、生きている、ということ。
では、その人が亡くなると?
また、新たな求心力となる人物が受け継ぎ現れることだろう。
現れない場合もある。
それは、それで、おしまい、ストップ。
強制力を持たない制度は、もろい。
続けるには、かなりの信念とエネルギーが必要である。
家父長制度のように、意識、概念、制度が社会全体で無理やりなら、
不満や悲劇も多いが、それなりに続いていく。
それがなくなった今、それに変わるものは、あるのか?
おそらくないのでは?
地方の家は、跡継ぎがなくなっていることだろう。
(根無し草の人々が寄り集まっている都会は、もともと価値観が違うので、ここでは言及しない)
しかし、頑張っている人々もいる。
・・・
価値観は、ひとそれぞれ、家族の中でも一致しないことが多い。
こころの中身をどう表現し、実行するか、それも、ひとそれぞれである。
家族の中で、メンバーそれぞれが、バラバラというのはいいと思わないが、
各、各々の家族には、各々の家族としての考えがあるだろう。
各家族の考え、思惑、ポリシーに従って、行動するのがよろしいかと思う。
ポリシーが無いというポリシーも、よろしいかと思う。
毎日が楽しければそれでよし、何事もなければよし、というのも、ある意味、正解のひとつである。
何が正しいとか、間違っているとかはない。
めんどくさいことは、お断り。それも、あり。
なんでもあり、なのである。
あえて、困難な道を選ぶ自由もある。
嫁・姑の陰湿なイジメ、確執なども、別居することによって、マシに。
お互い、距離を置いて生活する。
気に入らないことは、見て見ぬふり。
なにかあると、合流する。
いくつもの核家族が集まった、ゆるやかな大家族が理想だと思う。
4世代交流。
4世代で同居している家族も何家族か知っている。
なかでも、絶妙な設計により、玄関だけは同じだが、あとは、どの世代も顔を合わせない、
工夫された住空間を保っている大家族もいる。
都会に近い地域においては、珍しい。
おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、長男、長男の嫁、孫、次男。
4世代8人家族だった。
はじめてお邪魔したときは、その知恵、設計力に唸った。
普通の一戸建てに、3つの水回り(台所・浴室洗面・トイレ)が、個別に備わっていた。
2階建てだが、階段は2つ。
両親エリアに属する次男の部屋は、両親エリアからしか上れない階段で空間を上下に分け、
うまい具合にプライバシーが守られていた。
1階は、両親エリアと祖父母エリアに分けられ、
2階は、若夫婦家族エリアと、両親エリアの一階から階段で続く、次男の部屋。
マジックショーのごとく。
単純に1階と2階を老夫婦家族、若夫婦家族に分けておられるケースもある。
老夫婦の1階には、介護の必要がある、おばあちゃんの部屋がリビングに隣接して設けられていた。
これまた4世代同居。
お互いに気配だけを感じる。
用事のあるときは、電話かなにかで連絡する。
電気ガス光熱費は、別々。
つかず離れず。
(※現実的には、経済的事情や仕事の都合などで、そんな良い立地や、家の広さを確保できない家族が多いだろう)
通い婚ならぬ、通い実家(夫の実家、あるいは、妻の実家)、というのもある。
核家族夫婦が子供を連れて実家に通う、またまた核家族の親、子供、全員で孫を連れて、実家の実家に通う。
実家の実家には、おじいさん、おばあさんがいる。
4世代である。
(※これまた、現実的には、各世代のそれぞれの住まい、世帯を独立して維持できるかどうかという、人的、経済的問題もあるが)
だが、忙しい子供夫婦が、そう度々、実家に通うというケースは稀だ。
よほどの求心力がないと実現できない。
この求心力は、何か? 誰か?
長老となる人か。
札束だけをひらひらさせて、帰ってきたら、あれをあげる、これを食べさせる、それを買ってあげる、なにをしてあげる、
などという現ナマ作戦もあることだろう。
が、ご機嫌をとったり、とられたり、それだけでは、見え見え、ギスギス、どろどろ、逆効果の場合もある。
こころの求心力が必要だ。
(しかし、今のご時世、経済的、物質的援助ゼロ、労力援助ゼロで、求心力を発揮するには、相当の確固たる揺ぎない絶対的なものが必要だが、
新興宗教とか、マインド・コントロールとか、そういうのは、わたしは興味がない)
・・・
なぜ、わたしが、4世代にこだわるかというと・・・
赤ん坊が生まれる。
お年寄りがこの世を去る。
赤ん坊が少しずつ成長する。
お年寄りが少しずつ衰える。
こういう過程を自然に知るということは、とても大事だと感じるからだ。
病院で生まれて、病院で死ぬ。
生も死も、プロに任せっきり。
生々しさに、触れずに生きていると、人間として、なにかが欠如しているような気がする。
赤ん坊がひとつひとつ、なにかが出来るように、老人は、ひとつずつなにかが出来なくなる。
その過程を同時進行で見続けるというのは、とても生死の意味を見つめる、重大な経験だと思う。
老人のボケや粗相を叱ったり、嘆いたり、邪険にしたり、いらいらするのは、経験のない若い人なら仕方がない。
自分には考えられないようなことが起きると、理解不能になる。怒りもこみ上げる。
しかし、サルがだんだん4足歩行から2足歩行になるように、
人間も、徐々に成長し、徐々に衰退し、ついには死を迎える。
こういうことを日常の一部として経験できることは、大きな幸せである。
人間は生まれて、そして、死ぬ。
喜びも悲しみもセットである。
赤ん坊を世話している、若い母親が、傍らで、自分を世話してくれていた祖母が、どんどんダメになっていく。
孫の世話をしている熟年の人が、一方で、高齢の母親の世話をする。
日の出を見る勢いの新しいエネルギーを受けつつ、
と、同時に平行して、かつての日の出を終結させようというエネルギーの収まりどころのお手伝いをする。
この構図は、3世代では経験できない。やはり4世代必要だ。
もっと若い、ひいばちゃんも、いる。
ひいばあちゃんが、あの世に行きかけるころ、ひ孫はもう高校生以上、もしくは成人になっている。
子供と孫が、ひいばあちゃんの最後あたりの「人生レース」にお付き合いすることになる。
子供は、老年、孫は中年、ひ孫は青年。
5世代にわたることもある。
新しい命の輝きがあってこそ、老人は安らかな生活を送ることができる。
自然に枯れて、自然に土に還ることができる。
何事にも執着し、邁進することはよいことであるが、限度を逸して、闇雲にしがみつくのは老醜だと感じる。
生きることに対しても、とは言わない。
生きる気力をなくすと、なんにもならない。
「生きること」にしがみつくのと、「生きる気力がある」のとは、違うと思う。
単なる言葉遊びで、表現方法だけが微妙に違うだけだと、感じるかも知れないが、
・・・
・・・どう説明していいか、よく、わからないのだが。
・・・
多世代家族をつなぐ求心力が何か、である。
若い世代は、自分たちのことで精一杯。
年寄り世代に首を突っ込みたくないだろう。
中心となる人物がいる、生きている、ということ。
では、その人が亡くなると?
また、新たな求心力となる人物が受け継ぎ現れることだろう。
現れない場合もある。
それは、それで、おしまい、ストップ。
強制力を持たない制度は、もろい。
続けるには、かなりの信念とエネルギーが必要である。
家父長制度のように、意識、概念、制度が社会全体で無理やりなら、
不満や悲劇も多いが、それなりに続いていく。
それがなくなった今、それに変わるものは、あるのか?
おそらくないのでは?
地方の家は、跡継ぎがなくなっていることだろう。
(根無し草の人々が寄り集まっている都会は、もともと価値観が違うので、ここでは言及しない)
しかし、頑張っている人々もいる。
・・・
価値観は、ひとそれぞれ、家族の中でも一致しないことが多い。
こころの中身をどう表現し、実行するか、それも、ひとそれぞれである。
家族の中で、メンバーそれぞれが、バラバラというのはいいと思わないが、
各、各々の家族には、各々の家族としての考えがあるだろう。
各家族の考え、思惑、ポリシーに従って、行動するのがよろしいかと思う。
ポリシーが無いというポリシーも、よろしいかと思う。
毎日が楽しければそれでよし、何事もなければよし、というのも、ある意味、正解のひとつである。
何が正しいとか、間違っているとかはない。
めんどくさいことは、お断り。それも、あり。
なんでもあり、なのである。
あえて、困難な道を選ぶ自由もある。