goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

退屈

2013-12-05 | 暮らし
ご近所ブログの中に書かれていた、ある表現。
とても良いので、思わずそこで立ち止まった。
何度もそのセンテンスを読んだ。
上手い表現をされているなあ、と感心し、即座に、インプットされ、そのまま使ってしまいそうな悪い予感。
著作権には、うるさい?

表現が的確だったのだ。
文学的だとか、文章の才能がどうとか、そういう面からのものではなく、
ノーテンキなわたしの性格とは、真逆のこのブロガーさん、
こういう発想なのか、と、彼女の脳内システムを垣間見た気がした。

と、もったいをつけないで、その表現をご紹介いたします。
といっても、そのまま引用ではなく、アタマに残っている部分なので、細かいところは違うかも知れないが。


「時間の余裕は、私から優先順序をつける能力を奪う」
てなかんじのことが、書かれていた。
次から次から気になることを発見し、完了しないままに、次のすべきことに手をつける。
先先に、気が走り、完璧主義のこのブロガーさんらしい行動だ。
用事があふれ出してしまい、混乱、かえってくたびれる。

わたしは、時間の余裕があると、
ぼーーーっと(人から見ればすべてを無駄に※)、自分がしたいことをして使いきってしまう。
時間がある時にやっつけよう、と、とってある(先延ばしにしている)用事すら、しない。
で、自己嫌悪に陥る。
で、今度こそ、次回に・・・と、また先延ばし。
延々、その繰り返し。
本当に本当に火がつかないと、やり始めない。


※人にとって無駄と思われるが、自分は楽しいこと、
たとえば、繰り返し繰り返し、同じコト、モノを作っては壊し、作っては壊し、しても。

人によって、義務感にとらわれるか、自主的に好き放題やるか、動機も違うかも知れない。
性格の違いだと思われる。


・・・

わたしの知人で、よく、「退屈でした」とおっしゃる方がおられるが、
わたしは、めったに退屈はしない。
退屈と感じない。
退屈とほぼ同じような心境であっても、「退屈」という表現が適しない。
それは退屈なのではなく、「面白くない」「つまらない」「くだらない」「興味をそそられない」
「見る、聞く、行動するに値しない」「虚しい、時間の無駄」「充実しない時間」。

わたしにとっての「退屈」は、
「時間を持て余す」「なにもすることがない」である。
「間延びする」「時間を無駄に使っている」は、退屈ではなく、退屈を通り越して、「不快な後悔」にも近い感覚。


たとえば、時間が余ったとする。
それは、退屈ではなく、細切れの時間が生み出される。貴重な余り時間を使い、別の行動をする時間。
ただ、余った時間内に収まらなくてオーバーし、ストレスが溜まる場合もあるので、要注意。


心底、退屈な時は、どうするか?
なにをするか、考える。
すると、退屈時間は、あっという間になくなる。
たとえ、すべての時間を、「なにをするか?」を考えて使い切り、
「なにもすることがない」あるいは「思いついたが、今からでは、もう遅い」と結論に達したとしても。

眉間にシワを寄せ、なにも行動しない、ステキな哲学者になれるかも知れない。


・・・

考える時間のほうが長くて、行動に移す時間がほんのちょっとだったとしたら・・・
(これは、わたしがよく陥るパターンなのだが)
かえってカリカリして、負の感情を引き起こす。
だったら、なにも考えなくて、ぼーっとしているほうが、精神衛生上、よいかも知れない。

退屈を紛らわせるために、何気なくしたことが、意外にツボにはまって病みつきになることもある。
良いケースならよいが、これは、良くないケースもある。
社会の病理と紙一重のリスクもある。


わたしは、退屈しのぎに、暇つぶしにやったことで、どんどん時間を浪費していくと、あとで、虚無感に襲われる。
退屈と虚無感。どっちもどっち?
似ているのか?
身体に良くない質の悪い脂こてこてのケーキを、たっぷり食べすぎたような後味の悪さを覚える。
わたしにとって、退屈は敵だ。


なにもすることがない。
これは、幸せととらえるか、不幸ととらえるか。
生活状況にもよるだろう。
したいことがあるが、できなくて、なにもすることがないのか、
したいことは、みんなやってしまって、なにもすることがないのか。

傍らにすべきことが山のようにあるのに、やる気がしない、なんて場合もある。
山のように服があるのに、「着る服がない」、と嘆くケースと似ている?

・・・

癌が新たにまた見つかったという、樹木希林さんが言っていた。

「人に迷惑をかけないで生きていきたい」と。

これには、唸った。

わたしもまったく同感である。
わたしは、まだ死ぬには若いが、終活を視野に入れている。
自分の人生を閉じる方向に、目が向いている。
精神的に病んでいるとか、ウツとか、そういう病理を抱えた心理ではない。
自分だけの楽しみであっても、山のような不要品の処理や、大事なモノや、事務的な申し送り事項、
などなど、それらをやっておきたい。
そして、自分ができる間に、できることをしたいと考える。
しかも、自分の都合ではなく、相手の都合を考慮して。
例えば、子育てバックアップや、介護補助。
あくまでも、ヘルプ側であるところが、卑怯な発想であるが。
前面に出て、直接、中心的役割を担おうとしないところが、労働までもケチる、どケチの、わたしらしいところ。
渦中になると、そんな贅沢わがままは、言ってられなくなるが。

時間は待ってくれない。
子供はどんどん大きくなるし、親は、どんどん老いていく。
関わっておきたかった・・・なんて後で後悔しても、あとの祭り。
仕事は、代理の人に頼めても、個人の人生は、かけがえがない。
自分の人生は自分のものだから、と、一人で完結、終わってしまう前に、
少しでも役に立たないと、死ぬにも死に切れない。

・・・

と、考えていると、退屈しているヒマがない。
それこそ、優先順序の付け方が、わからなくなりそうだ。

振り回され方、捉え方が、性格や考え方によって多少は違っても、
状況や、表面に現れる行動は個人差があっても、
底流の真理というものは、共通するものがあると感じる。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ