ご近所ブログの中に書かれていた、ある表現。
とても良いので、思わずそこで立ち止まった。
何度もそのセンテンスを読んだ。
上手い表現をされているなあ、と感心し、即座に、インプットされ、そのまま使ってしまいそうな悪い予感。
著作権には、うるさい?
表現が的確だったのだ。
文学的だとか、文章の才能がどうとか、そういう面からのものではなく、
ノーテンキなわたしの性格とは、真逆のこのブロガーさん、
こういう発想なのか、と、彼女の脳内システムを垣間見た気がした。
と、もったいをつけないで、その表現をご紹介いたします。
といっても、そのまま引用ではなく、アタマに残っている部分なので、細かいところは違うかも知れないが。
「時間の余裕は、私から優先順序をつける能力を奪う」
てなかんじのことが、書かれていた。
次から次から気になることを発見し、完了しないままに、次のすべきことに手をつける。
先先に、気が走り、完璧主義のこのブロガーさんらしい行動だ。
用事があふれ出してしまい、混乱、かえってくたびれる。
わたしは、時間の余裕があると、
ぼーーーっと(人から見ればすべてを無駄に※)、自分がしたいことをして使いきってしまう。
時間がある時にやっつけよう、と、とってある(先延ばしにしている)用事すら、しない。
で、自己嫌悪に陥る。
で、今度こそ、次回に・・・と、また先延ばし。
延々、その繰り返し。
本当に本当に火がつかないと、やり始めない。
※人にとって無駄と思われるが、自分は楽しいこと、
たとえば、繰り返し繰り返し、同じコト、モノを作っては壊し、作っては壊し、しても。
人によって、義務感にとらわれるか、自主的に好き放題やるか、動機も違うかも知れない。
性格の違いだと思われる。
・・・
わたしの知人で、よく、「退屈でした」とおっしゃる方がおられるが、
わたしは、めったに退屈はしない。
退屈と感じない。
退屈とほぼ同じような心境であっても、「退屈」という表現が適しない。
それは退屈なのではなく、「面白くない」「つまらない」「くだらない」「興味をそそられない」
「見る、聞く、行動するに値しない」「虚しい、時間の無駄」「充実しない時間」。
わたしにとっての「退屈」は、
「時間を持て余す」「なにもすることがない」である。
「間延びする」「時間を無駄に使っている」は、退屈ではなく、退屈を通り越して、「不快な後悔」にも近い感覚。
たとえば、時間が余ったとする。
それは、退屈ではなく、細切れの時間が生み出される。貴重な余り時間を使い、別の行動をする時間。
ただ、余った時間内に収まらなくてオーバーし、ストレスが溜まる場合もあるので、要注意。
心底、退屈な時は、どうするか?
なにをするか、考える。
すると、退屈時間は、あっという間になくなる。
たとえ、すべての時間を、「なにをするか?」を考えて使い切り、
「なにもすることがない」あるいは「思いついたが、今からでは、もう遅い」と結論に達したとしても。
眉間にシワを寄せ、なにも行動しない、ステキな哲学者になれるかも知れない。
・・・
考える時間のほうが長くて、行動に移す時間がほんのちょっとだったとしたら・・・
(これは、わたしがよく陥るパターンなのだが)
かえってカリカリして、負の感情を引き起こす。
だったら、なにも考えなくて、ぼーっとしているほうが、精神衛生上、よいかも知れない。
退屈を紛らわせるために、何気なくしたことが、意外にツボにはまって病みつきになることもある。
良いケースならよいが、これは、良くないケースもある。
社会の病理と紙一重のリスクもある。
わたしは、退屈しのぎに、暇つぶしにやったことで、どんどん時間を浪費していくと、あとで、虚無感に襲われる。
退屈と虚無感。どっちもどっち?
似ているのか?
身体に良くない質の悪い脂こてこてのケーキを、たっぷり食べすぎたような後味の悪さを覚える。
わたしにとって、退屈は敵だ。
なにもすることがない。
これは、幸せととらえるか、不幸ととらえるか。
生活状況にもよるだろう。
したいことがあるが、できなくて、なにもすることがないのか、
したいことは、みんなやってしまって、なにもすることがないのか。
傍らにすべきことが山のようにあるのに、やる気がしない、なんて場合もある。
山のように服があるのに、「着る服がない」、と嘆くケースと似ている?
・・・
癌が新たにまた見つかったという、樹木希林さんが言っていた。
「人に迷惑をかけないで生きていきたい」と。
これには、唸った。
わたしもまったく同感である。
わたしは、まだ死ぬには若いが、終活を視野に入れている。
自分の人生を閉じる方向に、目が向いている。
精神的に病んでいるとか、ウツとか、そういう病理を抱えた心理ではない。
自分だけの楽しみであっても、山のような不要品の処理や、大事なモノや、事務的な申し送り事項、
などなど、それらをやっておきたい。
そして、自分ができる間に、できることをしたいと考える。
しかも、自分の都合ではなく、相手の都合を考慮して。
例えば、子育てバックアップや、介護補助。
あくまでも、ヘルプ側であるところが、卑怯な発想であるが。
前面に出て、直接、中心的役割を担おうとしないところが、労働までもケチる、どケチの、わたしらしいところ。
渦中になると、そんな贅沢わがままは、言ってられなくなるが。
時間は待ってくれない。
子供はどんどん大きくなるし、親は、どんどん老いていく。
関わっておきたかった・・・なんて後で後悔しても、あとの祭り。
仕事は、代理の人に頼めても、個人の人生は、かけがえがない。
自分の人生は自分のものだから、と、一人で完結、終わってしまう前に、
少しでも役に立たないと、死ぬにも死に切れない。
・・・
と、考えていると、退屈しているヒマがない。
それこそ、優先順序の付け方が、わからなくなりそうだ。
振り回され方、捉え方が、性格や考え方によって多少は違っても、
状況や、表面に現れる行動は個人差があっても、
底流の真理というものは、共通するものがあると感じる。
とても良いので、思わずそこで立ち止まった。
何度もそのセンテンスを読んだ。
上手い表現をされているなあ、と感心し、即座に、インプットされ、そのまま使ってしまいそうな悪い予感。
著作権には、うるさい?
表現が的確だったのだ。
文学的だとか、文章の才能がどうとか、そういう面からのものではなく、
ノーテンキなわたしの性格とは、真逆のこのブロガーさん、
こういう発想なのか、と、彼女の脳内システムを垣間見た気がした。
と、もったいをつけないで、その表現をご紹介いたします。
といっても、そのまま引用ではなく、アタマに残っている部分なので、細かいところは違うかも知れないが。
「時間の余裕は、私から優先順序をつける能力を奪う」
てなかんじのことが、書かれていた。
次から次から気になることを発見し、完了しないままに、次のすべきことに手をつける。
先先に、気が走り、完璧主義のこのブロガーさんらしい行動だ。
用事があふれ出してしまい、混乱、かえってくたびれる。
わたしは、時間の余裕があると、
ぼーーーっと(人から見ればすべてを無駄に※)、自分がしたいことをして使いきってしまう。
時間がある時にやっつけよう、と、とってある(先延ばしにしている)用事すら、しない。
で、自己嫌悪に陥る。
で、今度こそ、次回に・・・と、また先延ばし。
延々、その繰り返し。
本当に本当に火がつかないと、やり始めない。
※人にとって無駄と思われるが、自分は楽しいこと、
たとえば、繰り返し繰り返し、同じコト、モノを作っては壊し、作っては壊し、しても。
人によって、義務感にとらわれるか、自主的に好き放題やるか、動機も違うかも知れない。
性格の違いだと思われる。
・・・
わたしの知人で、よく、「退屈でした」とおっしゃる方がおられるが、
わたしは、めったに退屈はしない。
退屈と感じない。
退屈とほぼ同じような心境であっても、「退屈」という表現が適しない。
それは退屈なのではなく、「面白くない」「つまらない」「くだらない」「興味をそそられない」
「見る、聞く、行動するに値しない」「虚しい、時間の無駄」「充実しない時間」。
わたしにとっての「退屈」は、
「時間を持て余す」「なにもすることがない」である。
「間延びする」「時間を無駄に使っている」は、退屈ではなく、退屈を通り越して、「不快な後悔」にも近い感覚。
たとえば、時間が余ったとする。
それは、退屈ではなく、細切れの時間が生み出される。貴重な余り時間を使い、別の行動をする時間。
ただ、余った時間内に収まらなくてオーバーし、ストレスが溜まる場合もあるので、要注意。
心底、退屈な時は、どうするか?
なにをするか、考える。
すると、退屈時間は、あっという間になくなる。
たとえ、すべての時間を、「なにをするか?」を考えて使い切り、
「なにもすることがない」あるいは「思いついたが、今からでは、もう遅い」と結論に達したとしても。
眉間にシワを寄せ、なにも行動しない、ステキな哲学者になれるかも知れない。
・・・
考える時間のほうが長くて、行動に移す時間がほんのちょっとだったとしたら・・・
(これは、わたしがよく陥るパターンなのだが)
かえってカリカリして、負の感情を引き起こす。
だったら、なにも考えなくて、ぼーっとしているほうが、精神衛生上、よいかも知れない。
退屈を紛らわせるために、何気なくしたことが、意外にツボにはまって病みつきになることもある。
良いケースならよいが、これは、良くないケースもある。
社会の病理と紙一重のリスクもある。
わたしは、退屈しのぎに、暇つぶしにやったことで、どんどん時間を浪費していくと、あとで、虚無感に襲われる。
退屈と虚無感。どっちもどっち?
似ているのか?
身体に良くない質の悪い脂こてこてのケーキを、たっぷり食べすぎたような後味の悪さを覚える。
わたしにとって、退屈は敵だ。
なにもすることがない。
これは、幸せととらえるか、不幸ととらえるか。
生活状況にもよるだろう。
したいことがあるが、できなくて、なにもすることがないのか、
したいことは、みんなやってしまって、なにもすることがないのか。
傍らにすべきことが山のようにあるのに、やる気がしない、なんて場合もある。
山のように服があるのに、「着る服がない」、と嘆くケースと似ている?
・・・
癌が新たにまた見つかったという、樹木希林さんが言っていた。
「人に迷惑をかけないで生きていきたい」と。
これには、唸った。
わたしもまったく同感である。
わたしは、まだ死ぬには若いが、終活を視野に入れている。
自分の人生を閉じる方向に、目が向いている。
精神的に病んでいるとか、ウツとか、そういう病理を抱えた心理ではない。
自分だけの楽しみであっても、山のような不要品の処理や、大事なモノや、事務的な申し送り事項、
などなど、それらをやっておきたい。
そして、自分ができる間に、できることをしたいと考える。
しかも、自分の都合ではなく、相手の都合を考慮して。
例えば、子育てバックアップや、介護補助。
あくまでも、ヘルプ側であるところが、卑怯な発想であるが。
前面に出て、直接、中心的役割を担おうとしないところが、労働までもケチる、どケチの、わたしらしいところ。
渦中になると、そんな贅沢わがままは、言ってられなくなるが。
時間は待ってくれない。
子供はどんどん大きくなるし、親は、どんどん老いていく。
関わっておきたかった・・・なんて後で後悔しても、あとの祭り。
仕事は、代理の人に頼めても、個人の人生は、かけがえがない。
自分の人生は自分のものだから、と、一人で完結、終わってしまう前に、
少しでも役に立たないと、死ぬにも死に切れない。
・・・
と、考えていると、退屈しているヒマがない。
それこそ、優先順序の付け方が、わからなくなりそうだ。
振り回され方、捉え方が、性格や考え方によって多少は違っても、
状況や、表面に現れる行動は個人差があっても、
底流の真理というものは、共通するものがあると感じる。