梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

時には母の無い子の様に

2014-11-21 17:19:19 | 雑記

この歌は20代の早い時期に流行った、調べてみたら1969年とあったので21歳の時の歌だった、友人からサニークーペを借りて旅行雑誌で見つけた西湖までドライブした事が有る、この時にカーラジオから流れて居たのを思い出した、

メロディーが退廃的な感じで好きだったのだがその歌詞はなんとなく違和感が有った、母の有る普通の人がなんでこんな事を考えるのか解らなかったし、(馬鹿な歌詞だ)と思っていた、何しろ自分はずっと前に「母の無い子」になっていたし17歳からは「両親の無い子」でもあった、まあ「子」と言う歳でもなかったが少なくとも母親を亡くした時は10歳だから「子」と言えるのではないか?

母の無い子だからと言って大きな声で叫んで”見た事は無いし、普通の子が叫んだってなんの問題も無いだろう、「だけど心は直ぐ変わる、母の無い子になったなら誰にも愛を話せない」と言うのも当時は(妙な話だ)と思っていたが今の年齢になってこの歌を聞いた時、(「誰にも愛を話せない」と言うのは若しかしたらそうなのかもしれない)と感じて来た、
母のある子と無い子を同じ人間が経験してみると言う事は出来ないから単に性格の問題ではないかとも思うのだが多少は(影響が有ったのかな)とも思う、
15歳から家を出て働き出したが1年も経たないうちに親父は姉の処に住む事に成りその翌年には脳溢血で倒れ意識が戻らないまま他界した、中学を降りて最初に付いた仕事は名古屋で住み込みの仕事だった、近くにアパートを借りてあったが先輩と同室で食事も風呂も社長の家と言う言わば丁稚奉公である、

その後上京し大手電機会社に就職したが寮は二人部屋で常に誰かを意識しなければ生活出来なかった、
盆暮れと言っても帰る家は無い、家族は結婚して居るから当然私の「帰る」家は無く「生活する事は嫌われない事」と言う状況でずっと暮らして来て21歳で転職しやっと個室を貰ってから初めて自分の時間を持つ事が出来た、しかし母親を亡くした後気難しい親父と二人の生活から他人の眼を気にして暮らした10年間は私の性格を形成する大きな要因になったのだろう、今でも女房子供も知り合いも、「貴方は一人で平気に生きていける人」と言う、結婚しないで生きてきたらそれが当たり前として本当に平気で生きて行けたかもしれないがやはり家族を得てしまうとそうもゆくまい、今子供達とは離れて女房と二人の生活だが女房が居なくなったら本当に喪失感は凄い物だろうと思う、しかし一方で(又戻ってしまったか)と受け入れて生きて行けるかも知れない間隔もある、
「誰にも愛を話せない」と言うのは若しかしたらそう言う事なのかもしれない、若しかしたら本当に自分は誰にも「愛を話せなかった」のかも知れない、

人生が終盤に差し掛かったと言う意識が出始めると(まだまだ)と言う感情と(そろそろ)と言う感情が交差する、
忙しく働いている時はそんな事を考える余裕も無いがふと間が空くとぽっと浮かんできたりする、一人の生活は長い人生の僅か20年程度だしその後の人生の方が圧倒的に長い、女房と家族になってからの時も既に人生の半分を過ぎた、しかしやはりあの頃の事は結構引きずっているのかもしれない、齢66も後僅かか 、さてもう一旗、頑張ってみるか