『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[映画『イエスマン /“YES”は人生のパスワード』を観た]

2009-04-03 21:09:42 | 物語の感想
☆予告編を見て、「ああ、この映画は観に行かないな」と思っていた作品なのだが、ここにTBを飛ばしてくれる皆さんのレビューが頗る良好なので、しずしずと鑑賞に向かった次第だ。

 ・・・面白かった。

 この作品、特に、私のような40代の独身男には、ちょいと、これからの人生を元気に過ごしていける活力を与えてくれるかのような出来だった。

 独身女性における『アメリ』的な作品かも・・・。

 ・・・いや、私、この作品のいかにもな「自己変革セミナー」風の要素が嫌で、観に行くつもりがなかったのだが、さて観に行くと、まんまと、その「自己変革セミナー」風に乗せられた^^;

 そもそも、私は、誰もがそんな面があるのだろうけど、この主人公に似て、他人との関わりがわずらわしくなる時が頻繁にある。

 女の子とつきあっても、メールのやり取りが、ある一定のラブラブ期間を過ぎると、急速に億劫になる。

 電話などに出るのも面倒くさくなる。

 でも、この映画を観たら、そんな無精はとりあえず心の奥にしまって、友人の誘いには無条件で乗ってみっか! などと思わせられる魅力があった。

   ◇

 私にとってのジム・キャリーは、『マスク』から『トゥルーマン・ショー』への流れ辺りで止まっているので、この作品は、予告を見た限りでは、そのラインの、1アイディア(全てを「YES!」と肯定してみる)のハートウォーミング物だと思っていたのだ。

 しかし、非常に、コメディ要素が尖った(バンド<ミュンヒハウゼン症候群>!!!)、細部細部にお洒落心が宿った作品だった。

 その主人公カールを取り巻く仲間たちが、すべからく素晴らしかった。

 この作品、実体験をモチーフに書かれたストーリーらしいが、同じく、実体験らしい(まだ未確認^^;)『マーリー』と、根底の部分で近しいものを感じた。

 一方は全てを肯定、他方は問題犬を家族に迎え入れてみる。

 でも、その設定におんぶに抱っこではない、凝った人物設定や物語展開、ギャグ、編集・・・、その他の要素がうまく散りばめられていた。

   ◇

 ヒロインは「不思議ちゃん」のアリソン(ゾーイー・デシャネル)。

 この女優、シャマラン監督の『ハプニング』でも、妙な雰囲気を醸していたが、もしかして素なのだろうか?

 でも、この作品では「不思議ちゃん」設定なので、とても魅力的で、私も、こんな、身体も顔も性格もコンパクトな娘とつきあいたいなあと思った。

 彼女がバイクに乗る時のヘルメットの「キョロ目」なんて、この作品の遊び心をよく表わしていると思う。

 PS.今、彼女のフィルモグラフィーを調べたら、『テラビシアにかける橋』の女教師役をやっていた事も知った。

   ◇

 隣室に住む初老の女性の入れ歯外しエピソードには大爆笑させられたし(まさか、あそこまで^^;)、

 イケメンの親友が、「YES!」に拘りすぎて交通事故にあったカールに、「だから俺が言ったのに」と言い続ける所や、

 同じ病院の場面で、ヒゲの親友が「あの看護婦は俺に惚れている。さっきからチラ見してきて困るぜ」などと言うところなど、本当に細部に渡って、人物の個性と、その研ぎ澄まされたギャグが冴えている。

 ああ、会社の上司も良かったなあ。

 カールが悪ノリしたときの、ドン引きの表情が良かった^^

 ハリーポッターの仮想パーティーネタは、分かりやすいけど、鋭くて、面白かった。

 「YES」教の教祖は、先日観た『ワルキューレ』でコテコテ硬派のゲルマン軍人を演じたテレンス・スタンプが真顔で演じていて、それだけで笑った^^

 ・・・こんな楽しい奴らと、「YES!」と言い続けていたら出会えるような、そんな楽しい作品であった。

 PS.作中に、身勝手な理由で不機嫌に接客している韓国人女性が出てくるが、その個性造型が、いかにも韓国人気質なので、そのリサーチ力と、物語への反映のさせ方に感心した。

                           (2009/04/03)
コメント (4)
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[おほっ! 雑誌『正論』グラビアに松浦光修先生が!!]

2009-04-03 08:35:16 | 保守の一考
☆先月は、私、保守系雑誌『正論』『諸君!』と二冊を購入し、でも読み終えていない^^;

 だから、一昨日発売の今月号も買うつもりなく、本屋でパラパラと見ただけだ。

 でも、昨夜、何故だか買う気が起きて(共時性・1)、『正論(5月号)』を購入、忙しい仕事後のラーメン屋で読み始めた。

 いつもはけして、グラビアページなど見ないで、すぐに読み物を読むのだが、この時は、何故だか、最初から1ページづつ捲った(共時性・2)。

 見たことある人物が目に飛び込んできた。

 「私の写真館」という、保守系文化人の半生を写真とともに追ったグラビアのページだ。

 ・・・松浦光修皇學館大学教授だった。

「おおっ!」

 私は、チャーハンを食いながら微笑んだ^^

 松浦先生とは、<「新しい歴史教科書をつくる会」内紛>での、その、犯罪行為/不道徳行為の追及糾弾戦の渦中で知己を頂いた。

 今は、もう、敵方となった「新しい歴史教科書をつくる会」は、まともな原型をほとんど留めていないが、私は、あの頃の日々を思い出すと「楽しかった~^^」と言う思い出がいっぱいだ。

 自分が、自分の信じる「正しさ」のために戦い、そして、勝利を得るというのは嬉しいものだ^^

 ここで、私が、松浦先生とつながりがあると書くと、陰謀論を妄想する「つくる会」残党がいるので、私は、ここで「挨拶程度の関係だ」と断っておく。

   ◇

 その、くだんのグラビアは、松浦先生自身が、自分の半生についてコメントしている。

 詳細は、本屋で『正論』を手にとって見て欲しい。

 私は、簡単に箇条書きで感想を書いておく。

  ・赤ちゃんの頃からの松浦先生の容姿を見ることが出来るが、面影はあるが、それぞれ違うのが面白い。
   緊張して、おどけているかのように軍隊風敬礼する少年の写真や、
   お母さんに抱かれて安心感でまったりしている少年の写真^^
   丘でギターを抱えて微笑する青春の一コマ・・・。
   松浦先生が、ごく普通の若者の人生を送ってきたことが見て取れる。
   だからこそ、そこで育まれた「保守思想」が純粋であることが見て取れよう。

  ・軍人であったお父さんの軍服姿の写真の好青年(イケメン)振り!
   この方の、終戦直後の「将校室への殴り込み事件」は必読です。
   この方が、松浦先生に人生の体験談を聞かせ、松浦先生の思想の基礎となる要素の一つになったか。

  ・松浦先生が高校の教諭であったときの、女生徒との写真は素晴らしい。
   みんな、スレンダーな美少女だ。
   三つ編みも可愛い。
   この高校の制服は、セーラー服と看護婦さんの白衣風のハイブリッドで、とても清潔感がある。
   そういった時代なので、スカート丈が長く、ドレッシーだ。
   私は、イメージ的に、マンガ『武装錬金』の美少女・武藤まひろの制服姿を思い出した^^

          

   ◇

 では、松浦先生に関係ある過去の更新を転載します。

   ◇   ◇   ◇

   [松浦光修講演録『「うひ山ぶみ」- その学問論の現代的意義』を聞く] 2007/01/14 22:00

 ▼日曜の昼下がり、講演録CD(製作:スタジオ・フローラ)を聞く。

 松浦先生は、若い頃から、常に「日本人と生まれたからには!」の思いを抱き、その青春を生きてきた。

 その思いの道筋として、皇學館大學に入る。

 私などは、そんな若いうちから確固たる人生上の目的などは持っていなかった。

 最近でさえも、『ハリー・ポッター』シリーズを読んでいて、魔法学校高学年になったハリーが進路の相談を教師とするのだが、私は、それを読んでいて、ひどく不安に駆られた。

 なんか、「置いてきぼり」をくらったような気になってしまったのだ^^;

 私は、松浦先生が、そんなにも若き頃より社会意識に目覚めていたのが不思議ではある。私のような者には理解が難しいのである。

 どのような親御さんに育てられて、どのような本を読み、どのような師に出会ったのであろうか?

 松浦先生は、ここでは詳しく語らないが、学生時代にも、かなり豪快な「日本人としての」学生運動をしていたようだ(その、聞くだに華々しい活動を聞くと、後続の学生運動家の一部が、その先人たるべき松浦先生たちを貶めることによって、自分のオリジナリティを際立たせようとする気持ちが推察できる・・・)。

 そんな学生時代に読み、その後の松浦先生の指針になったのが本居宣長『うひ山ぶみ』だった。

 松浦先生は、二十歳の頃に、以下のような感想を、その岩波文庫の末尾に記したという。

 ≪・・・「ああ、ついに本朝の自覚生まれたり。吾を知る者のみ、他を知るべし。(中略)神道信じる上は、そが世界唯一と思わずば、低き相対的現象論にとどまる。たとえ、ロンドンに照れる日も、この吾の赴くところ、天照大神ならずして他の何ぞや。吾の在る世界、即ち、吾の想い信ずる世界ではないか」・・・昭和55年時・初読の感想≫

 やや、気負いが感じられもする若き日の松浦先生の感想である。

 けれど、それを偽ることなく語れるのが、松浦先生の素直さと自信であろう。

 ▼『うひ山ぶみ』は、本居宣長の晩期の作である。

 大著『古事記傳』を完成せしめ、かねてより門弟の者より教えを乞われていた「学問入門」的なものとして書かれたものが『うひ山ぶみ』である。

 そこには、現在の学問状況に照らし合わせても、何ら遜色なき教えが見られる。

 原文に触れるのが第一であろうが、ここでは、その松浦訳から、更に私が概念抽出をしてみたいと思う。

 興味があったら、是非、原文にあたってみて欲しい。

 私も、『うひ山ぶみ』を購入しようと考えている。

 つくづく、難解な面もある原文であるが、その難解な字の連なりを、何回も何回も無理矢理でもいいから読むと、それが経験となり、その難解さを理解しようとする苦難さえもが、人生の糧となり得るのである、・・・と言うことを後に本居宣長は教えてくれる。

「・・・日本では昔から、『学問』と言うと<漢学>のことを言った。対して、日本のことを学ぶことを『和学』『国学』と言った。これはおかしいことだ。何で、自国のことを学ぶのに、それが多種の学問の一つとして区別されなければならないのか? それこそ『学問』で良いではないか。<漢学>の方こそ、『漢学』と区別されるべきだ・・・」

 これ、細かいことを言っているようでいて、非常に重要なことでもある。

 当然のように使われている言葉が、その根本の部分で不適切であると、その不適切が、その言葉を使用している民族全体を呪縛するのである。

 宣長の頃、漢学が流入、浸透しきった時期にあった。

 現在の日本社会は、アメリカニズムでさえない、アメリカが作為的に日本に押し付けた「思想」に蹂躙されている。

 アメリカニズムでさえないと言うことは、マルキシズムの入り込む要素があり、アカき者どもが跳梁跋扈する社会でもある。

「・・・残念ながら、『学問』は<漢学>として世間に浸透してしまっている。自分が、<日本についての学問>の意で『学問』と言っても、聞いてる者には<漢学>と受け止められてしまう。せめて、<日本についての学問>を『皇朝学』とでも呼んでくれたらいいのだが。しかし、現状で、日本人が自国についての学問を<和学>とか<国学>と呼ぶのはおかしい。自分らが日本人ではないみたいではないか? 外人が<日本についての学問>をそう呼ぶのなら別段構わない。しかし、日本人がそう呼ぶのは道理にかなわない・・・」

 宣長の指摘する、かようなものの視点の帰結が、「自国を損ねる平和主義」「自国を損ねる人権至上主義」「自国を破壊する市民主義」への昇華である。

 アメリカは、それはそれは愛国心豊かな国民である。

 しかし、戦後、GHQの政策は、日本人からそれを排する方向に向かった。

 そして、同時に、愛国心なき平和主義・人権主義を持ち込んできた。

 そして、多くの日本人は、自分の足場を喪失した。

 筑紫哲也や司馬遼太郎は、よく「この国」「この国」と日本を評す。

 これが、「我が国」「我が国」でない所が、これらの【戦後民主主義者】の異常である。

 ▼「・・・全てのものごとについて言えるのだが、他人のこととして考えるのと、自分のこととして考えるのでは、おのずから大きな違いが生じる。他人のことを深く考えていると思っても、どうしても、自分のことのようには考えが及ばない。和歌についての思索についても同じである。上代の和歌をいくら考えてみても、ある程度までしか考えが及ばない。しかし、いざ、自分が上代形式で和歌を詠んでみると、頭だけではなく、心も使うので、その深い意味がよりよく理解できるのである。我が師(宣長の師・賀茂真淵)も<自分で上代風の和歌を詠み、また上代風の文章を書いて見なさい>と語っています・・・」

 これ、私は、子供の頃から、いつも痛感させられる。

 いつも映画作品をけなしつつ、さて、文化祭で映画を撮ってみる。

 ・・・難しいのである。

 いつもマンガ作品をけなしつつ、いざ、効果的と思われる絵を描いてみる。

 ・・・こちらの表現したいことが伝わらないのである。

 宣長の言っていることと、かなり方向性が違うけれど、自分がやってみて、理解できることは、世の中には凄まじく多い。

 反対に、こうして、普通にサラリーマン生活をしつつ、日夜エントリーし続ける力技を理解してくれない方も多い^^;

 「スタニラフスキー・システム」と言う演技についての一様式がある。

 例えば、「猫背」の男の演技についてだが、多くの演者が、その「猫背」を真似ようとする。

 しかし、「スタニラフスキー・システム」においては、その役柄との同調を深く示すので、「猫背を隠そうと、反り返る猫背の男」の演技に至るのである。

 私は、「スタニラフスキー・システム」について詳しくないのだが、おそらく、それは、実践の結果として生まれた演劇論なのかもしれない。

 ・・・私は、政治家をけなし、市民運動をはじめた左翼集団たちの末期が見えるのである。

 それに耐えられる胆力をもったものが「政治家」足り得るのである。

 ▼学問における心構え。

「・・・『学問』とは、ただ長い年月、飽きず、怠けず、努力を継続させることが重要であり、その<方法>にこだわる必要はない。そこに気を使うは愚であり、どんなに<方法>が良くても、本人の意思が弱ければ、何の成果もあがらないのである・・・」

 ・・・努力である。

 実は、私、なまじっか頭がいいので^^; 努力する人生を送ってきていない。

 だが、ここ数年、遅ればせながら「努力」の必要性を実感している。

 翻って、私に似た子供たちに、学校と言う「擬似社会」の中で、努力の必要性を認識させることの難しさを、誰よりも痛感していると思う。

 叩き込むしかないのである。

 自分が怠けていて、非常に申し訳ないが、私に似た子供には若い頃に苦労して欲しい。

 おじさんは、今、凄く苦労しているよ^^;

「・・・人には、生まれながらの才能の<在る/無し>がある。しかし、それは、悔しがっても栓なきもの。才能のない者でも、努力し続ければ、それなりの立派な成果があげられるものである・・・」

 ・・・クールな意見である。

 町内一の可愛い子は、ミス日本になるために、磨きをかけなくてはならないし、その先の世界大会もあろう。

 時は流れる。

 才能の維持もあろう。

 才能の持つレベルの、どの立場でも努力は必要である。

 才能のある人ほど、更なる努力をし続けている。

 私は、それ程には才能ないが、最近、努力している。

「・・・晩学の人でも、努力すれば、思わぬ功に恵まれよう。忙しい方でも、才能の少ない方でも、それを言い訳にしたりせず、ひたすらに精進し続ければ成果はあがる。途中で投げ出すことこそが、学問では、もっとも悪しきことである・・・」

 ・・・私は、なるべく、「もう遅い」と言う思いを、心から追い出そうとしている。

 「もう遅い」と思ったとき、私の「若さ」は消滅すると思っている。

 ▼「・・・全ての学問に言えるが、はじめから、その志は高く持ち、<その奥義を究めるぞ!>と、心に固く誓わなくてはならない。さもなくば、それは頓挫してしまうだろう・・・」

 ・・・昨年末の紅白歌合戦で、話題をさらったDJ OZMAの後に、しっかりと楽曲を歌い上げた歌手にアンジェラ・アキがいる。

 彼女は、椎名林檎のライブを武道館で観て、こう誓ったという。

「私も、三年後に、武道館でワンマンコンサートをやる!」

 そして、ピッタシ三年後の日時に、アンジェラ・アキは武道館コンサートを実現するのだった。

 ▼「學は人たる所以を學ぶなり(吉田松陰)」・・・。

 吉田松陰は、本居宣長から多くの影響を受けていた。

 小林秀雄も「学問は、道である」と言っている。

 学び続けることは、人としての生き方の本道なのだろう。

 ▼「・・・人として生きて、<人の道を知らない>というのでは済まない。もとから<学問をしよう>と言う志がないのならば、それは良かろうが、ひとたび、学問を志したならば、<その道>を明らかにするために力を注ぐべきである。それを放っておき、些事に拘泥してばかりいては、本来の目標には至れない・・・」

 ・・・宣長の教えはなかなか厳しい。

 しかし、その原初において、至高の目標を掲げられない者は、後の努力も、当初の目標の枠内から減じるばかりとなるのだろう。

 ▽松浦先生が引用した原文の多くは、『うひ山ふみ・鈴屋答問録(村岡典嗣著・岩波書店)』による。

 松浦光修先生と、その盟友・新田均先生のブログ『光の集い』、皆さん、お読み下さい!

     http://hikarinotsudoi.cool.ne.jp/(クリック!)
                                    (2007/01/14)
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[衝撃! 小沢一郎は中国共産党から送り込まれた先兵/尖兵]

2009-04-03 07:14:21 | 保守の一考
☆頼りにして、いつも閲覧させて貰っている荒間総帥サイト(クリック!)で、以下のような衝撃的な事実の書き込みを読んだので転載させていただく。

   ◇

《  題:『民主党の売国レイテストニュース』

            氏名:ナポレオン・ソロ 日:2009/04/02(Thu)15:08 No.7499

 余りに吃驚したので、ご紹介します。

 <「新世紀のビッグブラザーへ」から拾ってきました>

   『「理解広がっている」と小沢氏、中国常務委員との会談で

 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090331-OYT1T00158.htm

 民主党の小沢代表は30日、党本部で中国共産党の李長春・政治局常務委員と会談した。
 出席者によると、小沢氏は、政治資金規正法違反事件で公設秘書が起訴されたことについて「不当な捜査だ」と検察を批判し、「私の主張はだんだん理解されてきている」と自信を見せたという。
 会談には、鳩山幹事長や山岡賢次国会対策委員長、中国共産党の王家瑞・対外連絡部長らが同席した。出席者によると、王氏が「いま、政治とカネが問題になっているが、民主党は本当に政権交代を実現できるのか」と質問。小沢氏が気色ばみ、李氏が「古い友人だから、そういうことも聞いただけだ」と取りなす場面もあったという。』

                          <記事引用終了>

 三橋さんもコメントしているが、何処の国に、余所の国、しかも核ミサイルを40基以上も向けている国の高官から「政権を取れるんだろうな」と訊かれる国会議員が居るモノか、しかも、ついこの前迄、次期総理大臣確実だった男がである、名前を伏せて読んで居れば、スパイとその雇い主の話にしか聞こえない。

 「古い友人」とは、正に語るに墜ちる話でしょう、小沢は、スパイなんですね、しかも、昔から、相手は共産シナの政治局常務委員ですからね、しかも、読売新聞に茲まで情報を流すなんて、一体ドゥ云う神経なのか。

 是を読んでも、「民主党に一辺政権を取らせてみようか」ナンテ云えるのなら、自分の家にミサイルを撃ち込まれない限り気が着かないレベルと言う他はない、詰まり、家族を皆殺しにされ、全財産を焼き尽くされて初めて判るのだろう。

 平和呆けと言うより、天然の三猿病ですね=看サル、訊かサル、云わサル、マスコミを過信すると顕れる症候群です。   》

   ◇

 ・・・私、この内容に、とても衝撃を受けました。

 「小沢氏が気色ばみ」のところなど、血気盛んな子分って雰囲気です。

 妙に臨場感ある記事ですね・・・。

                                  (2009/04/03)
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