☆てな訳で、かつて書いた文章の再々掲である。
「読んでね!^^」
初めてカンボジアを訪れた私と僧侶の交流
◇ ◇ ◇
昨日再掲した「碑文篇」に続き、「廃仏篇」を再掲する。
驚きました。
この連作は、ホームページでエントリーした時、全くお客さん(閲覧者)が来なかったのです。
でも、ブログでの昨日のアクセスは、歴代ベスト10に入るほどの盛況振りでした。
有難う御座います^^
どうぞ、後篇をお楽しみください^^v
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[アンコール遺跡研究の権威・石澤良昭教授の講義を受けたよ・廃仏篇(2004/09/06の講演)](2007/02/15)
▼さて、間髪入れずに、後篇に行こう^^
前回、アンコール遺跡の主要なものが集中している範囲は、東京二十三区と同程度の規模である、と記したが、この広さは、パリ市街とも同じほどの広さである。
私は、人間が都市を形成するにあたって、ある一定のスケールにおいて限界があるのではないかと、ちょっと考えている。
今のところ、世界の他の都市を検討してみると言う作業を施していないのでなんとも言えないが、都市と言うものは、つまり、ある一定の規模を超えると、分割してしまうのかも知れない、などと勝手なことを思っている。
(更に余談)皆さん、カンボジアのアンコール朝など、田舎の小さな国などと思っているかも知れませんが、
『10世紀の段階でアンコール都城の人口が世界で第4位約20万人、第1位はコルドバ(45万人)。12世紀初めアンコール周辺を含め、約40~50万人。(石澤教授の資料より)』だったっちゅうのだから驚きである。
つまり、ベトナム・タイ・ラオスを包括すると言う大帝国だったのである。
NASAの衛星写真などが公開されると、カンボジア周辺には、明らかに10万都市の痕跡がポコポコ存在しているそうだ。
▼さて、そんな大帝国であるが、何故に衰退したのか?
それには諸説ある。
例えば、『治水の管理がうまくいかなくなり、国の根幹を為す稲作農業がうまくいかなくなった』とか、
また、『治水がうまくいってた時は、年に四毛作が出来たとか言う話もあり、それにより、稲作地の土壌が酸性化してしまった』もある。
『周辺諸国との政治的軋轢(軍事衝突)』と言う説もある(カンボジアは立地が悪い^^ 四方八方、敵国に囲まれている)。
残念ながら、その衰退期における史料(碑文)があまりなく、フランス極東学院の研究家たちは、概ね以下のような結論を出していた。
(要約)『建寺王朝であったアンコール朝は、あまりにも数多い大石造寺院を造り過ぎて、国民を疲弊させてしまった』
『特に、全盛期の王・ジャヤヴァルマンⅦ世の事業は、国民に大きな負担をかけ、国民に、自国への隣国からの攻撃に抗する力を削いでいった』と言うのだ。
これらを主張するのは、フランスの古代東南アジア研究の大家・セデスと、やはりフランスのアンコール水利都市論を発表したグロリエであった。
後者に至っては、『建寺王・ジャヤヴァルマンⅦ世と、彼が造ったヴァイヨン寺院の後には、アンコール朝において注目される王や寺院はもはや存在しない』と言い切っている。
つまり、全盛期のジャヤヴァルマンⅦの後は、その全盛期における多数の寺院建造の結果として、国民がグダグダになり、衰退していったと言うのだ。
三島由紀夫の戯曲で有名な「ライ王のテラス」遺跡
ライ王とは、ジャバルマン7世のことで、
ここには、そのレプリカ像が置かれている。
像の両側の裸体の男は、私の友人^^;
石澤教授に拠ると、『・・・その主張の根拠は碑文史料が欠落し、その時代を示す考古出土品もなく諦めに近い結論であった。それと同時に、この二人の第一人者に導かれた完璧な結論は一つの呪縛ともなり、多くの学者がこれまで是認してきた・・・』とのこと。
▼さて、石澤教授を中心とする上智大学のアンコール遺跡調査団は、国交のない二十数年前から、カンボジア政府と協力し、アンコール遺跡の保存・修復・調査活動を行ってきた。
その一環として、<カンボジア人中堅幹部養成プロジェクト>を行い、現地に上智大学アンコール研修所を作った。
研修実地場所として、平面展開の大伽藍<バンティアイ・クディ>が選ばれ、その広い境内の中で、「発掘」と「修復」の研修が行われることとなった。
1992年のことだ・・・。
そして、そう言った研修作業が順調に進み、カンボジア人のスキルも上がりつつあった十年目の2001年3月、特にさしたる理由もなく、バンティアイ・クディの境内内ではなく、参道の脇を掘ることにした・・・。
普通、考古発掘においては、だいたいの当たりをつけて掘り出すのであるが、この場合は偶然であった。
103体の廃仏が発見されたのである・・・。
おって、2001年8月、171体の仏像も発掘される、計274体・・・。
発掘中、夜間の盗掘の危険もあったため、警察にガードさせ、でも、その警察さえ信じられないのがカンボジアなので(日本もだったり^^;)、『アプサラ(アンコール地方遺跡保存整備機構の略称)』の有志が、その警察の監視に寝ずの番をしたりしたそうだ。
(注・アンコール遺跡の盗掘の現状については、その内、報告します。日本の裏世界にも、多数、アンコール遺跡が流通してるのです)
仏像の大きさは大きいもので1.8メートル、小さなもので20センチのものまで大中小様々で、石仏だけでなく、青銅製の小仏も見つかっている(←その鋳造技術の先進性!)。
これらの仏像は、その様式により、作られた年代等が推測できる。主に、13世紀のヴァイヨン様式であり、三重のナーガ(蛇神)の胴体上に鎮座した典型的な仏像の姿がある。
ナーガは七つ頭を大きく広げて、背後から仏陀を守っている・・・。
また、座仏が四面に計1008描かれている千体仏石柱も見つかっている。これはカンボジアでは初めてのものだ。
つまり、それは『曼荼羅』であり、同時に、当時の仏教が密教の影響を受けていたことを窺える。
石澤教授 『・・・これまでにアンコール遺跡群の調査・研究・保存修復活動は、1860年のアンリ・ムオのアンコール遺跡紹介から始まり、旧フランス領インドシナであったのでフランス極東学院独占的に行ってきた。しかしながら、ここアンリ・ムオから140年あまり経過するが、今回のように千体仏の石柱および274体もの大量の廃仏が発見された例がない。その意味で大発見といえるだろう。しかし13世紀の後半に廃仏の事件の教唆を示唆した論文が、1999年にフランス人アンコール研究家クロード・ジャック教授から提起されていた。これは大量の廃仏発掘を予見した論文ではないが、その示唆は興味深い。
こうした大量の廃仏発見から言えることは、他の同時代の仏教系遺跡であるプリヤ・カーン、タ・プロームなどにも、廃仏が地中に埋められている可能性が高い。今回の発掘はアンコール王朝末期の歴史を塗りかえるほどの大発見と言えよう。そして、この廃仏をめぐって歴史・考古・美術・図像の諸学から新しい議論が提起されてくるだろう。廃仏発掘を手がかりに往時のアンコール時代末期の社会と文化を解明していきたい・・・』
▽石澤チームらの知的興奮は、察してあまりある。
余談だが、石澤氏らは、「では、この辺はどうだろうか?」と掘った場所があったそうで、そこからは、小さな水晶が発見されたそうだ。
しかし、それは、うかつに公言できないのである。
何故か? ・・・地域のカンボジア住民が、夜陰にまぎれて、そこら中を「ゴールドラッシュ」のように掘り返し始める危険があるからだ^^;;;
また、前段の石澤教授の引用の中で出たクロード・ジャック氏の主張とは、1990年の著作の中で『よく分からぬ最後の王たち』として全盛期の王・ジャヤヴァルマンⅦ世以後の王について語っている・・・。
建寺王・ジャヤヴァルマンⅦ世は国教として仏教を採用している。
だが、そこから急速に衰退していったと思われる後の王が、ヒンドゥー教シヴァ派へ回帰していると指摘してるのだ。
・・・これは不思議なのである。
王権が弱体する中で、国教を改宗しようとするのである。
その困難さ!
クロード・ジャックは、前述したフランス人東洋学者の大家セデスの弟子であり、フランス極東学院最後の世代の研究者である。
▽アンコールの国教を、凄まじく簡単に言うと、こういう流れだ。
ほとんどずーっと<ヒンドゥー教> ⇒ だが、全盛期の建寺王・ジャヤヴァルマンⅦ世の治世は<仏教> ⇒ そして、クロード・ジャックの指摘によると、この後、<ヒンドゥー教>に回帰する。
だが、セデス、グロリエ、クロード・ジャックら、フランス極東学院の学者たちの研究結論としては、ジャヤヴァルマンⅦ以降のアンコール朝はヘナヘナと衰退の一途を辿っていた筈なのである。
(ちなみに、巨大な四面仏顔で有名なアンコール・トムのヴァイヨン寺院も、ジャヤヴァルマンⅦ(7)の治世に建造されている)。
▼そこに、274体の廃仏の<大発見>があった。
これが示す、アンコール末期の状況とは!?
そう・・・、国王のヒンドゥー教・シヴァ派への回帰に伴い、国をあげた「反仏教キャンペーン」が、国民の隅々まで行き届いた結果を示しているのだ!
確かに、仏教徒にとっては迷惑な話であるが、ヒンドゥー回帰の王・ジャヤヴァルマンⅧ(8)世やインドラヴァルマンⅡ世の統治は、うまく行っていたことを如実に表わしているのだ。
フランス極東学院の見解によると、ジャヤヴァルマンⅦ(7)以降の王は、疲弊のままに衰退していた筈なのである。
また、更に、その後の王になったシュリンドラヴァルマンは、上座部仏教を公認している・・・^^
つまり、ヒンドゥー(諸王) ⇒ 仏教(ジャヤヴァルマン7) ⇒ ヒンドゥー(ジャヤヴァルマン8) ⇒ 仏教(シュリンドラヴァルマン) ・・・。
▼思えば、と石澤教授は苦笑いしながら語ってくれた。
「・・・1296年(シュリンドラヴァルマン治世)にカンボジア(真臘)を訪れた周達観も、その地の繁栄を『真臘風土記』に書き残していた。【舶商(異国の行商人)】の語が見られる^^ 元の時代の周達観の後に書かれた『明(朝)史』の『真臘伝』にも、【富貴真臘(富栄えているカンボジア)】と記されている^^ ああ、既に、答えは出ていたのだなあ・・・」と・・・。
ジャヤヴァルマンⅦ(7)世以後のアンコール朝も、ちゃんと機能していたのである。
廃仏の発見は、【フランス極東学院の呪縛からの離脱】でもあった。
【既に、古典に答えは記されていたのである!】
▽私は心の中で狂喜乱舞した。
だって、数日前に、偶然思い立って、現在のカンボジア研究には意味がないと思いつつ買った『真臘風土記』である。
でも、その難しいところをひも解く意味でインターネットを調べていたら、偶然、その翌日に催される石澤教授の公開講義を知ったのである。
最新の研究である故に、『真臘風土記』とは、何ら接点がないと思いきや、その最新の結論の果てに、古典の記述の正しさが示されたのである。
この興奮、たまらんぜよ^^;
▼廃仏は、とても丁重な葬られ方をしていたそうである。
丁寧に土をかけ、突き固められたことが分かっている。
王の命令だとはいえ、当時の作業に従事した者の心には、仏様への複雑な思いがあっただろう・・・。
仏教を信奉した王・ジャヤヴァルマンⅦ世の建てた石造寺院の仏教彫刻や、仏教レリーフは、かようにして、後のヒンドゥー信仰の王によって葬られた。
仏教においては悲しいことだが、これは逆説的に、アンコール帝国が、その末期においても、国家として機能していたことを示している。
だが、アンコールトムの中心寺院、巨大な仏顔の塔が何十と立てられているヴァイヨン寺院は、何故に破壊されなかったのか? (その仏顔は、観世音菩薩と言われている・・・)。
それは、ヒンドゥー信仰の王たちは、全部で200面近くある巨大な四面仏顔塔を、ヒンドゥー教の最高神・ブラフマーと見立てることにしたのである。
ブラフマー神は、シヴァ神・ビシュヌ神とともに、ヒンドゥー三大神の一神に数えられるが、観念的なのであまり人気がない。
が、四つの頭部、四本の手を持つと言うブラフマーを、四面仏顔塔に解釈してみたのであろう。
▼ある意味、フランス極東学院の研究を覆してしまう研究結果を見い出してしまった石澤チームであったが、そう言った点でのフランスの懐は深く、石澤教授がフランスの学術雑誌『Arts Asiatiques』に発表した今回の発表論文は、おおむね好評に迎えられたそうである^^
(2004/09/08の再掲)
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私は、カンボジア・ネタであったなら、かなりの文章ストックがあるので、折を見て更新したいと思います。
(2007/02/15)
◇ ◇ ◇
・・・したいと思います^^
(2009/04/20)