約10日ほど前の朝日新聞の惜別欄に岩手医科大学眼科元教授今泉亀徹氏が昨年12月29日に死去されたことが載っていた。享年102歳であったとのこと。私は驚きと懐かしさを懐きつつこの記事を読んだ。
今泉元教授は1957年、岩手医科大学大学内に開設した「眼の銀行」の登録者から角膜の提供を受け、少女に移植した方である。
この、国内初の角膜移植をめぐっては、必ずしも称賛ばかりではなかったらしく当時地元の岩手日報でもいろいろ取り上げられており話題の方であった。記事によると、この移植は「死体損壊罪に触れる恐れがある」と社会的議論を呼んだとのことで、法的な対応を迫られた検察庁は、「法的に問題があるとしても、杜会性に富んだ正当で崇高な行為。道徳的、人道的にみて犯罪の成立は認められない」との判断を下したとのことである。これにより、翌年、角膜移植法が成立、「眼の銀行」はその後のアイバンク運動に引き継がれた。一次は厳しい立場にも追い込まれたらしいが「患者のための医療は最後は勝つ」との信念をお持ちだった、とのことである。今泉氏が違法性を承知しながら患者のために、と貫いた信念が社会を動かした。現在まで視力を取り戻した患者はどれだけの数に及ぶか、予想だにできない。
なんで今泉氏を知っているかというと、私が17歳で高校1年の時、自転車通学が寒さのために困難となり、盛岡市北山と言うところに下宿した。今泉氏の自宅も近所にあって、休日などはよく二人の娘さんを連れて散歩されていた。下宿のおばさんを介して何かのきっかけで言葉を交わす様になった。当時、角膜移植のことで有名になっておられたが、私が医学部志望とのことをご存じで気さくに話しかけてくださり、医療のことや大学のことなど教えていただいたような気がする。当時は随分肥られており気道系の病気をお持ちだったような、おぼろげな記憶も残っている。
直接的にはそこまでであるが、県医師会の役員になってから私は秋田県アイバンクの評議員を何年か務めた。既に角膜初移植から半世紀近く経っていてアイバンク事業自体は軌道に乗っていたから、直接今泉元教授のことが話題になることはなかったが、私は常に元教授のことを意識し、業績の深さに畏敬の念さえ抱いて評議員会に出席していた。
評議員を辞してからは元教授のことを思うことはなかったが、先日の新聞記事である。
まだお元気であったのか、と今回は氏の長寿について驚いた次第である。102歳でお亡くなりになられたとのことで、100歳の時の自画像の前でのお写真が新聞に掲載されていた。白髪と長い白髭で仙人のごとく、とても矍鑠としておられた印象である。
「惜別」の記事を機会に、約50年前の盛岡の風景、当時の生活のことを懐かしく思い出してしまった。
今泉元教授は1957年、岩手医科大学大学内に開設した「眼の銀行」の登録者から角膜の提供を受け、少女に移植した方である。
この、国内初の角膜移植をめぐっては、必ずしも称賛ばかりではなかったらしく当時地元の岩手日報でもいろいろ取り上げられており話題の方であった。記事によると、この移植は「死体損壊罪に触れる恐れがある」と社会的議論を呼んだとのことで、法的な対応を迫られた検察庁は、「法的に問題があるとしても、杜会性に富んだ正当で崇高な行為。道徳的、人道的にみて犯罪の成立は認められない」との判断を下したとのことである。これにより、翌年、角膜移植法が成立、「眼の銀行」はその後のアイバンク運動に引き継がれた。一次は厳しい立場にも追い込まれたらしいが「患者のための医療は最後は勝つ」との信念をお持ちだった、とのことである。今泉氏が違法性を承知しながら患者のために、と貫いた信念が社会を動かした。現在まで視力を取り戻した患者はどれだけの数に及ぶか、予想だにできない。
なんで今泉氏を知っているかというと、私が17歳で高校1年の時、自転車通学が寒さのために困難となり、盛岡市北山と言うところに下宿した。今泉氏の自宅も近所にあって、休日などはよく二人の娘さんを連れて散歩されていた。下宿のおばさんを介して何かのきっかけで言葉を交わす様になった。当時、角膜移植のことで有名になっておられたが、私が医学部志望とのことをご存じで気さくに話しかけてくださり、医療のことや大学のことなど教えていただいたような気がする。当時は随分肥られており気道系の病気をお持ちだったような、おぼろげな記憶も残っている。
直接的にはそこまでであるが、県医師会の役員になってから私は秋田県アイバンクの評議員を何年か務めた。既に角膜初移植から半世紀近く経っていてアイバンク事業自体は軌道に乗っていたから、直接今泉元教授のことが話題になることはなかったが、私は常に元教授のことを意識し、業績の深さに畏敬の念さえ抱いて評議員会に出席していた。
評議員を辞してからは元教授のことを思うことはなかったが、先日の新聞記事である。
まだお元気であったのか、と今回は氏の長寿について驚いた次第である。102歳でお亡くなりになられたとのことで、100歳の時の自画像の前でのお写真が新聞に掲載されていた。白髪と長い白髭で仙人のごとく、とても矍鑠としておられた印象である。
「惜別」の記事を機会に、約50年前の盛岡の風景、当時の生活のことを懐かしく思い出してしまった。
私は数年前光凝固の手術をいたしました。
その時手術して下さった先生から
「もう数時間遅かったら網膜剥離で失明してましたよ」と
言われた時はゾッといたしました。
私は医学の恩恵を受けたのだと感謝の気持ちでいっぱいでした。
現在は定期的に検査を受けて
不自由なく暮らしております。
院内に置いてある角膜移植の登録に関わる
パンフレットなどを見ると私にはとても
できないだろうなと寂しい気持ちになる
時があります。
でもほかにも誰かの役に立つことはあるはずと
自分で自分を慰めております。