果物という日本語の響きがいい。一部の人は「フルーツ」と言うが、「くだもの」と言った方が、甘くてみずみずしいイメージを表現できているな、と思う。
言葉だけでなく、果物全般が好き。だからと言って好む範囲は狭い。人工的に味を調整した菓子よりはずっと好き。
子供の頃は、果物は買ってくるものではなかった。ほとんどが地産地消、イヤ、自産自消であった。
我が家は開業医ではあったが庭や畑は広く、収穫できる樹木、モモ、スモモ、ウメ、リンゴ、ナシ、カキ、クリ、ブドウなどなどが複数あった。
もちろん専門農家のようには立派なのは成らなかったが、新聞紙を折って自家製の糊で作った袋をかけたりして大切に育てた。さらに、ご近所や患者さんからもいただくこともあって自宅で消費するには量も種類もほぼ間に合った。
また、畑では大根や芋類などの根菜や一般的な野菜の他にイチゴ、スイカ、ウリ、トマトなど果物系の実を収穫した。
その当時は、住み込みのお手伝いさん、看護婦見習いも2−3名いて大家族で、分担して誰かが適宜世話していて、私も適宜手伝った。
私が退職後、樹木の世話や花造り、畑仕事に親しんでいれるのは高校卒業までいた盛岡近郊の田舎生活の経験が基礎になっている。
夏には井戸水で冷やした自作のスイカ、今の時代から見ればほとんど冷えていなかったし甘くもなかったのだが、それなりに冷たさを感じながら食べたものだった。
冬のミカンだけは静岡産のを箱で取り寄せていた。 冬の夜は、こたつにあたりながらミカンの連続食いをしたものである。手や顔がカロチン沈着で黄色くなるほど食べたものである。高齢者の健康に関する書籍には果糖は体に良くないからミカンは一日1ヶにしなさいと書いてあった。食べたきゃ10ケ食うべし、それが幸せというもんだ。
子供時代の果物に関する記憶は幸福なものであった。ほとんどが自分も手をかけて育てたものという自負と満足感があった。たとえ形が悪くとも、口に入れた途端身体が捩れるほど酸っぱくても、ほぼ最高だ、と思っていた。
秋田に来てからはほぼ全ての果物は家内や石井さんが購入してくる。買い求めた果物はあまりにも高品質で立派である。規格外のレベルまでしか作れなかった私など、スーパーや商店に行くと気後れしてしまう。高級な巨峰など一房2500-3000円!!!!もする。珍しい果物を目にしても高い!!!と思うばかりで私は買えない。
最近の果物類で私がイヤなのはなんでも甘くなりすぎていることである。果物の真の価値は甘さではなく酸っぱさにあると思う。
今も毎夕食後果物を食べているが中心はリンゴ、ナシでレパートリーは狭い。
フルーツと呼んで抵抗ないのは南洋の果物である。毛が生えている丸い物体や、とても果物とは思えない紫がかった物体が売られているが、多くは油っぽくて石鹸のような匂いがする。偏見かもしれないが、食欲がわかない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます