大佗坊の在目在口

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甲州柏尾の会津藩士

2009-04-21 | 會津
甲州街道勝沼町深沢の畑の中に、1つの墓碑がある。

その墓碑には
「明治元年三月六日戊辰の役柏尾坂の戦に於て戦死す
会津藩士柴田八郎謙吉之墓碑、
明治三十年四月、雨宮とく当所に墓を建て懇に弔う
昭和五十七年三月六日 耕雲書」とある。

説明板には、勝沼町に幕府側二名(柴田八郎・池田七三郎)、
政府軍一名(木村武則)の墓が残っているとあった。

「太政官日誌」甲州勝沼ノ戦によると、
「惣勢を三手に分ち、一ト手ハ因州一小隊、本藩大砲隊
(隊長北村長兵衛)本街道より進ミ、一ト手ハ因州、高遠之兵、
本藩小隊(隊長小笠原謙吉)吉川を渡り、右ノ方より進ミ、
一ト手ハ本隊小隊(隊長谷神兵衛)左ノ山を攀ち、敵背へ出候様、
約束を定置、繰出候処、賊徒共街道の橋を撤し砲台を築き罷在、
忽を互発砲、賊徒ハ民家ニ放火し、谷を隔て防戦。長兵衛隊及
苦戦候折柄、因州勢其応援之為め左之山ニ登リ、又因州、高遠之兵
及謙吉隊右ノ山ニ登リ、双方より発砲合撃いたし、賊徒共一時計り
防禦候得共、神兵衛隊急ニ敵背ヘ出、賊三人討取、大音を揚け、
山上より余賊を追下候故、賊衆落胆、要害を棄て候ニ付、
三面より追撃いたし、神兵衛隊砲台を奪ひ、賊徒共敗れ、
少々退又防戦仕候得共、亦敗走し、官軍進て鶴瀬駅に至り、
賊徒ハ遂ニ笹子峰を踰ヘ遁去候」とある。

さらに
太政官日誌にある甲州勝沼ノ戦にある死亡者名は会藩山崎壮助、
賊ノ隊長加々爪某、斬首一名、戦死は四名とある。

幕末維新全殉難者名鑑によれば、新撰組として柴田八郎、
加賀爪勝之進、上原栄作、白石五六郎、四名の記載がある。

勝沼町の説明にある池田七三郎は、新選組の最後の 生き残りで
昭和まで生きていた稗田利八別名池田七三郎と同じ姓名。

此の名は池田七之介として山梨県史(甲府旧町年寄坂田某ノ雑記)
に名があり、小説「歳三奔る―新選組最後の戦い」で
池田七之助として登場する。

一方、旧幕府より登城禁止を命じられた会津藩主松平容保は、
慶應四年二月二十二日、会津に還り蟄居謹慎して恩命を待ち、
「恭順の意を貫かんことを希ひ、敢て兵を他領地に出さず。但
領外に於て浪戦する者あるは、少壮の激徒多くは脱走し、
旧幕の脱兵等と共に為す所にして、藩命に由るに非ざるなり」
とし、江戸の藩兵も会津に帰国させている。

ただ甲州町年寄坂田雑記には「近藤勇等凡百七十人会津藩兵と称し」と
あり、保坂元房の日記にも「土佐勢三四百人、会津勢四五十人にて戦あり
会津即死四人土佐即死壱人(因幡藩士)の由」と述し、甲州勝沼の地元では
会津藩が官軍と戦ったと思われていた。

岩崎山の狐原にあると云う池田七之助の墓碑はいったい誰なのだろう?
墓標のある柴田八郎は会津藩士だったのであろうか、ここにも忘れられた
会津藩士がいた。

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