前回長崎に来たときは、長崎佐古軍人憤墓地を始として会津関係史跡を中心に廻ったので、今回はキリスト教徒ではないが幾つかの教会を大急ぎで廻った。
駅から真直ぐに浦上天主堂に向う。昭和20年の長崎原爆によって破壊されたが昭和34年に再建され、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会だという。
天主堂の正面左手前に原爆の強烈な爆風で破壊された黒焦げの聖人の石像が並んでいる。
教会の右手前に拷問石が置かれていた。
説明に「明治四年六月中旬、長崎浦上切支丹教徒二百六十名は、博多の獄舎より転送せられて萩に来り、堀内岩国屋敷に収容された。明治五年四月の帰国までには、相当の死亡者(二十八人)を出している。その間、信者は獄吏、神官等より改宗の説諭を受けたことは勿論であるが、中々転向しないので、遂には非常手段として、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問方式が用いられた。その時、信者が座らせられた石に「拷問石」と呼ばれたものがあり、それには切支丹の尊敬名誉の標章である十字架が刻まれてある」とあった。
西坂の日本二十六聖人記念聖堂に行く。
慶長元年十二月十九日、六名の外国人と二十名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑された。その列聖百年祭を記念して、二十六聖人等身大のブロンズ像を配した記念碑が建立された。レリーフで彼らの足がみんな垂れ下がっているのは、昇天の様子を描いているからだという。空中に浮いている足をみて、他の事を想像してしまった。「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て 十字架をとりて我に従ふべし」と聖書の言葉が記されている。
中町教会を通って大浦天主堂にむかった。中町教会はあとで知ったが島内要助神父が中町教会の創建をキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である現在地に求めたと云う。原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失したが、昭和26年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建され現在に貴重な被爆遺構として残っていた。
大浦の日本二十六聖殉教者天主堂、通称大浦天主堂は人気の場所らしく、女子高校生がわんさかいた。この教会は急な石段の上にあり、写真を撮るのがむずかしかった。
教会内部はポストカードより
出口で書籍を売っていた。帰りの電車で読もうと思い三俣俊二著書「和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン」等数冊買った。「拷問石」の年代で不思議に感じ、江戸幕府時代の話かと思ったら、明治になってからの異教徒への激しい弾圧の話で、宿に戻って夜中の二時まで掛かってイッキに読んだ。浦上のキリシタン全員約3千人を徳山・高松・松山・高知・鹿児島・名古屋・津・郡山・和歌山・姫路・福山・岡山・広島・津和野・山口・冨山・大聖寺・金沢・鳥取・松江の二十藩に流配したという。改心を拒み禁教解禁までに死亡者が50%を超えた藩もある。自分だったら食事を絶たれたら三日も待たず真っ先に転んでしまいそうで、その信仰の強さに驚く。家の中に神棚があり、仏壇があり、クリスマスを祝う身としては、かなり肩身が狭い。
長崎佐古軍人憤墓地(2010/11/26)
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