大田区には明治大正期の戦役碑は多く残っている。西南戦争碑が大森警察署のところにあるというので訪ねた。国道15号と産業道路(131号)がぶつかる三角地に碑が在ると思っていたが、見つからず、結局大森警察署で碑の場所を訪ねる羽目になってしまった。大森警察書の裏側、東南の角(131号側)に西南、日清戦役記念碑が並んであった。
大きい碑が「征清従軍旌功之碑」、小さな碑が「丁丑之役戦死並従軍紀念碑」。東京に残っている西南戦争関係の碑で丁丑之役とあるのは珍しい。
丁丑とは十干十二支を組み合わせて六十年サイクルで、十干の丁と十二支の丑とで明治丁丑の年は明治十年(1877)となる。蛇足ですが、西暦年を六十で割って余りが十七の年が丁丑の年となる。そういえば明治十年に起きた内乱(?)を西南戦争と何気なく使っていたが正式にはなんと呼ばれているのだろうか。明治新政府は正史編纂のため部局を有し、名称を変えながら直近の歴史を編纂した。修史部局が編纂した明治初期の主要な時代史は「復古記」「明治史要」「征西始末」と云われている。ところが、「征西始末」は、膨大な資料を収集したが編纂方針変更等により最終的には未完に終わっている。明治十年陸軍諸旅団の兵を以て西南の賊徒を征討したる戦記として陸軍省参謀本部は「征西戦記稿」を編纂、明治二十年出版した。海軍省は「明治十年西南征討志」として明治十八年に出版している。
公文書では西南事件(十年四月)、西南戦争(明治十年十一月)、西南ノ役(明治十年十二月)、丁丑之役(明治十二年六月)と表記されているが、この内乱の呼名に統一性はみられない。
(西南事件)
明治十年四月 西南事件に付臨時警察費兵庫県広島県へ下渡方取計候旨供覧
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C070606700
(西南戦争)
明治十年十一月 西南戦争各隊径戦の地名可被差出
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09085751200
(西南之役、西南事件)
明治十年十二月 四鎮台被置節召集の壮兵本年応募従軍者賞典下賜人名簿進達
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C04027728900
(明治丁丑之役)
明治十二年六月 明治丁丑の役武官より兼任警視官の負傷第4項策定の者の件
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09120586300
「西南戦争」も、なんで「南西戦争」と呼ばれなかったのだろうか。東西南北と東南西北の違いは何時ごろから始まったのだろうか。よく方角は「南北」が先で、地域は「東西」先にくるというが、海軍省水路部は明治二十年、沖縄群島・石垣水路を測量して供給水路図誌目録に地域の名称を南西諸島として記載し、以後、群島名称の一部が確定していないものの、薩南諸島、琉球諸島、大東諸島を含めて名称を「南西諸島」としている。そうすると「西南」も「南西」の使用例の区別も明確でなく、話はややこしくなる。あるサイトに西郷南洲の起こした内乱だから「西南戦争」と呼ぶようになったとか、長州勢(西)が薩摩勢(南)と争った戦争だから西南戦争と呼ぶようになったとあった。成る程、うまい事考えるものだと感心してしまった。話を元に戻す。「丁丑之役戦死並従軍紀念碑」の裏陰刻には明治十年戦役従軍者の戦死者四名、従軍者六名、計十名の氏名が刻まれているが、戦死者四名すべて田中姓で、同じ一族だったのだろうか。
他の西南戦争碑
左)西討戦死之碑(仙台) 右)戦死士招魂之碑(青山警視庁墓地)
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