大佗坊の在目在口

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泉岳寺 殉難戦死之碑

2013-01-21 | 掃苔

赤穂浪士四十七士を弔う墓所で有名な東京高輪泉岳寺の山門を潜って左側に「殉難戦死之碑」が建っています。殆どの人はこの戦死之碑には気が付かず通り過ぎて行ってしまいます。
 
 
 この戦死之碑は明治十年の西南の役で別働第三旅団豊後口警視隊萩原徴募隊として参加して戦病死した磐城の十八名の人たちの顕彰碑です。
 
萩原徴募隊の一番小隊長は大和郡山で密偵と間違えられ殺された会津藩士公用方松阪三内の敵討ちを果たした嫡男鯉二が戊辰後変名した日野重晴で、新撰組隊士だった斎藤一こと藤田五郎も萩原徴募隊の半隊長だったと言われている。明治十一年八月に建てられた原碑が倒壊したため、大正十二年三月(1923)、酒井新太郎弟勇次郎によりに再建されたことが碑文により判る。碑陰を書きとっていて酒井新太郎の名が出てきて驚いた。昨年、訪ねた福島のいわき平古鍛冶町、安藤家の菩提寺で戊辰役「磐城の戦い」による旧平藩戦没者五十四名が弔われている戊辰戦死者追福改葬浄地でもある良善寺に警視徴募第四番小隊兵士酒井新太郎の墓があったのを思い出したからです。
 
いわき市平良善寺酒井家墓域、墓域内の酒井勇次郎翁石像
 
  
塩谷七重郎著「西南戦争と福島県人」によると、大分市の大分県護国神社境内墓地にも酒井新太郎の墓があるとのことです。

殉難戦死之碑
明治十年西南上変
勅陸海軍征之諸道敵愾之士亦応募奮起於是也警視萩原貞固為方
面長属其第四小隊者臨発誓曰捨身報国唯此時為然各自死戦勿期
生還五月奉命抵豊後府内賊棄田中駅而走進戦三本松遂復竹田城
三十一日船岡萬次郎以創死追地又戦宇多枝村六月八日復臼杵城
此後也彼我殊死戦連三日夜富永楮三郎林辺喜平印東重之志村貞
基大谷力有川延行沖関次郎当死之傷者凡三十余名而伊東敬工横
山忠岸重久等遂以没七月十三日進撃抵日向戦三河内村後山黒岡
十一郎死之八月二日追戦三角山賊出没無時地属絶険我隊頗苦小
倉兵太郎死之被創者亦多而加留良英酒井新太郎倶不越廿一日聞
賊擣後返軍巡豊後佐伯村曩傷者高島謙次郎山本又蔵大谷鉱次郎
等至是皆没以上十有八士忠勇義烈以身殉国不背平生之志使人概
嘆掩泣乃遽金建碑于芝泉岳寺記其功以慰其霊而銘之曰
   捨生取義 視死如帰 以作士気 以揚皇威
 明治十一年八月常陸森昭治題額旻門中林徳寅撰并書
原碑為暴風雨所倒壊予甚惜之乃損貨再建焉
        大正十二年三月 新太郎弟磐城平酒井勇次郎
                      堀部忠次郎刻
裏陰刻
 再建賛助員
  磐城平
   白井博之 佐藤庄太郎 井上茂作 山崎興三郎 青天目源一郎

碑文の忠勇義烈の十八士名
船岡萬次郎、富永楮三郎、林辺喜平、印東重之、志村貞基、大谷力、有川延行、
沖関次郎、伊東敬工、横山忠、岸重久、黒岡十一郎、小倉兵太郎、加留良英、
酒井新太郎、高島謙次郎、山本又蔵、大谷鉱次郎

会津藩士 三内と熊吉
良善寺 戊辰戦死者追福改葬浄地

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6 コメント

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警視隊の碑 (カワチ)
2013-01-26 16:42:58
『忠魂碑等建立調査集』によれば、泉岳寺には山門横にある萩原隊の碑以外にも西南戦争警視隊の碑があるそうですね。
泉岳寺には警視隊の碑が二つあるということでしょうか。
探しても見当たらないのでもしかしたら現存しないのか、檀家以外は入れない泉岳寺墓地内にあるのかもしれませんね。
返信する
警視隊碑 (大佗坊)
2013-01-27 14:42:32
いわきの「殉難戦死之碑」は意外な感じがしたので、
他に警視隊の碑があるのかどうか、何回も泉岳寺を
訪ねたのですが、詳しい人というのがいつも不在で
確認できていません。
調査集から採った簡単なメモしか手元にないので、
調査集を再度確認してみます。
返信する
豊後の警視徴募隊の墓など (オダ)
2013-08-02 01:24:18
八重の桜で中村獅童の演ずる佐川官衛衛の印象が強く、調べるなか、彼の墓が大分護国神社の西南の役警察官墓地にあることを知った。南阿蘇から改葬されたものである。会津・斗南関係者15人の墓もあり、その一人が酒井新太郎である。また、泉岳寺18人のうち、16人の墓もある。また、入口には萩原隊の顕彰碑もある。高島謙次郎と小倉兵太郎は佐伯市の陸軍墓地に墓がある。
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忠魂碑のこと (大佗坊)
2013-08-02 14:48:01
オダ様、書込み有難うございます。管理人の大佗坊です。
「忠魂碑等建立調査集」は、東京、神奈川の忠魂碑について靖国神社社務所で発行したもので、建立当時の所在が記載されたものです。西南戦争での福島県人については、後藤正義氏著「西南戦争警視隊戦記」、塩谷七重郎・高橋哲夫両氏の著作等により詳細に発表されているところですが、まだ九州にある西南戦争戦跡は廻っていないので機会を作って廻りたいと思っています。
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豊後の警視隊について (オダ)
2013-08-02 16:32:33
少し追加します。
(1)豊後には、警視隊が3隊派遣されています。第一号が佐川官兵衛の属する590人の隊で、阿蘇での激戦を経て熊本へ転出。第二号(247人)と徴募隊(707人)が大分県内の竹田市から宮崎延岡市へ転進した隊です。薩軍は野村忍助の指揮する奇兵隊で、県南の山岳戦はかなりの激戦だったようです。
(2)警視隊では大分護国神社に103人、佐伯陸軍墓地に14人が眠っています。さらに、細島にも?人。大分には白虎隊士の田原重文(左近)と篠澤乕之助が含まれます。
(3)磐城の18人と記載されてますが、長野県や山形県などの出身者があり、萩原隊の第四小隊のみ?のようです。戦死の場所から、大分の墓の氏名は有川延行=有川兼太郎、伊東敬工=伊藤敬次、大谷鉱次郎=大谷直政?ではないかと考えています、まだ、調査不十分です。
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豊後の警視隊 (大佗坊)
2013-08-02 22:03:29
ご教示頂きありがとうございます。
九州に行く機会があれば参考にさせて頂きます。
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