先日、日野の土方歳三資料館に展示してある
「慶応二年八月」の裏銘のある土方歳三の
持物だったと言う大和守秀国の刀を見にいった。
銘
表 大和守源秀國 秋月種明懇望帯之
裏 幕府侍土方義豊戦刀
慶応二年八月 秋月君譲請高橋忠守帯之
問題は秋月種明、高橋忠守がどこの誰だということ。
会津藩士に江上太郎こと秋月登之助種明という人がいる。
渡辺多門の「辰之日記草稿」にこの人の名が出てくる。
鳥羽伏見で戦死、黒谷慰霊碑にある江上又四郎は叔父にあたる。
江上太郎は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に残留し脱藩、
名を秋月登之助と改名。秋月が伝習隊隊長のときの
副長が土方歳三だったという。
まんざら接点が無いわけでもない。
この刀が土方戦死後、西軍に接収押収、
世に出回った可能性も否定できない!
九州の大蔵一族に秋月氏、高橋氏がいる。秋月氏は高鍋藩主。
高橋氏は大友氏に敗れ、その後二本松藩士となった高橋氏と、
島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた高橋氏がいる。
ふと、気が付いた、会津若松に秋月氏の墓が興徳寺にある。
この墓、原田・三原・秋月家先祖代々之墓とあり同じ一族。
諸士系譜によれば、江上氏漢祖後裔原田対馬寿末葉
肥前国城原城主 江上又四郎家種二男とある。
この原田氏と江上氏は同じ家紋で本国はいずれも筑前。
何のことはない。
原田氏、江上氏、秋月氏、高橋氏、皆同じ一族だった。
二本松藩士旗奉行高橋九郎、その子に高橋種祀がいる。
「種」の字は一族の通字。チョット荒唐無稽な話か!!
「慶応二年八月」の裏銘のある土方歳三の
持物だったと言う大和守秀国の刀を見にいった。
銘
表 大和守源秀國 秋月種明懇望帯之
裏 幕府侍土方義豊戦刀
慶応二年八月 秋月君譲請高橋忠守帯之
問題は秋月種明、高橋忠守がどこの誰だということ。
会津藩士に江上太郎こと秋月登之助種明という人がいる。
渡辺多門の「辰之日記草稿」にこの人の名が出てくる。
鳥羽伏見で戦死、黒谷慰霊碑にある江上又四郎は叔父にあたる。
江上太郎は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に残留し脱藩、
名を秋月登之助と改名。秋月が伝習隊隊長のときの
副長が土方歳三だったという。
まんざら接点が無いわけでもない。
この刀が土方戦死後、西軍に接収押収、
世に出回った可能性も否定できない!
九州の大蔵一族に秋月氏、高橋氏がいる。秋月氏は高鍋藩主。
高橋氏は大友氏に敗れ、その後二本松藩士となった高橋氏と、
島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた高橋氏がいる。
ふと、気が付いた、会津若松に秋月氏の墓が興徳寺にある。
この墓、原田・三原・秋月家先祖代々之墓とあり同じ一族。
諸士系譜によれば、江上氏漢祖後裔原田対馬寿末葉
肥前国城原城主 江上又四郎家種二男とある。
この原田氏と江上氏は同じ家紋で本国はいずれも筑前。
何のことはない。
原田氏、江上氏、秋月氏、高橋氏、皆同じ一族だった。
二本松藩士旗奉行高橋九郎、その子に高橋種祀がいる。
「種」の字は一族の通字。チョット荒唐無稽な話か!!
秋月の部下でした。途中で秋月に代わり
部隊を率いていく。勿論、新選組には
復帰しておりません。「会津史談」にそのこ
とを書いたゲラを送付済み。
どうなったのでしょう?
宅で歳三が休み、急ぎ会津へ向かったわけで
すが。私は歳三が刀を登之助宅へ置いて行っ
たと思っています。もう一つ記録文があって
歳三が湖南で刀を奪われたこと。これは、
そうあってほしくないという私の考えから
消しました^_^; 刀を現在の所有者が見つけ
たのは大昔のこと。でも、他界される前に
刀磨ぎで書き手だと№1だった方が確実な
史料がみつかるまでは歳三が使用したと思わ
ないように言ったそうです。ところが、
証拠がでてきた。何なのかまでは教えて
いただいていない。問題は、見つかったのが
北海道でなくて日野だということでした。
武士が刀の中子にあのような刻みを
入れるか、疑問に思っている所です。
彫ったのでなくて(刻んだかな?)何回か
にわけたことがわかります。鞘に書いたのは
亡くなられたTさんだそうです。
関わっていたという事ですね。
なるほどね~
手元に。 ただ、北海道から日野に
維新後になって持ち帰った話もありますが。
市村は、刀とかは持ち帰っておりません。
秋月も確かに、斗南から北海道に渡っているの。そうなってくると、私もお手上げ。
高橋忠盛が誰なのかだけ明確ではありません。