大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津藩士 秋月登之助

2008-01-25 | 會津
先日、日野の土方歳三資料館に展示してある
「慶応二年八月」の裏銘のある土方歳三の
持物だったと言う大和守秀国の刀を見にいった。


表  大和守源秀國  秋月種明懇望帯之
裏   幕府侍土方義豊戦刀
   慶応二年八月  秋月君譲請高橋忠守帯之

問題は秋月種明、高橋忠守がどこの誰だということ。
会津藩士に江上太郎こと秋月登之助種明という人がいる。

渡辺多門の「辰之日記草稿」にこの人の名が出てくる。
鳥羽伏見で戦死、黒谷慰霊碑にある江上又四郎は叔父にあたる。

江上太郎は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に残留し脱藩、
名を秋月登之助と改名。秋月が伝習隊隊長のときの
副長が土方歳三だったという。
まんざら接点が無いわけでもない。

この刀が土方戦死後、西軍に接収押収、
世に出回った可能性も否定できない!
九州の大蔵一族に秋月氏、高橋氏がいる。秋月氏は高鍋藩主。

高橋氏は大友氏に敗れ、その後二本松藩士となった高橋氏と、
島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた高橋氏がいる。

ふと、気が付いた、会津若松に秋月氏の墓が興徳寺にある。
この墓、原田・三原・秋月家先祖代々之墓とあり同じ一族。

諸士系譜によれば、江上氏漢祖後裔原田対馬寿末葉
肥前国城原城主 江上又四郎家種二男とある。
この原田氏と江上氏は同じ家紋で本国はいずれも筑前。

何のことはない。
原田氏、江上氏、秋月氏、高橋氏、皆同じ一族だった。

二本松藩士旗奉行高橋九郎、その子に高橋種祀がいる。
「種」の字は一族の通字。チョット荒唐無稽な話か!!
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7 コメント

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秋月と土方 (伊藤哲也)
2010-03-07 03:01:26
土方歳三は、江戸から会津着いて出陣しても
秋月の部下でした。途中で秋月に代わり
部隊を率いていく。勿論、新選組には
復帰しておりません。「会津史談」にそのこ
とを書いたゲラを送付済み。
返信する
大和守秀国の刀 (大佗坊)
2010-03-07 09:14:43
で、結局この刀の話、
どうなったのでしょう?
返信する
大和守秀国 (伊藤哲也)
2010-03-10 23:36:11
歳三と共に宇都宮で負傷した秋月。その秋月
宅で歳三が休み、急ぎ会津へ向かったわけで
すが。私は歳三が刀を登之助宅へ置いて行っ
たと思っています。もう一つ記録文があって
歳三が湖南で刀を奪われたこと。これは、
そうあってほしくないという私の考えから
消しました^_^; 刀を現在の所有者が見つけ
たのは大昔のこと。でも、他界される前に
刀磨ぎで書き手だと№1だった方が確実な
史料がみつかるまでは歳三が使用したと思わ
ないように言ったそうです。ところが、
証拠がでてきた。何なのかまでは教えて
いただいていない。問題は、見つかったのが
北海道でなくて日野だということでした。
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秀国の刀 (大佗坊)
2010-03-13 09:05:00
刀のことは、詳しくないのですが、
武士が刀の中子にあのような刻みを
入れるか、疑問に思っている所です。
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少なくはないですよ (伊藤哲也)
2010-03-13 20:20:56
銘に色々なのが刻まれているのを記憶しています。ただ、今回の秀国」の場合だと一度に
彫ったのでなくて(刻んだかな?)何回か
にわけたことがわかります。鞘に書いたのは
亡くなられたTさんだそうです。
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秀国の刀 (大佗坊)
2010-03-14 09:00:23
そうすると、複数の人が
関わっていたという事ですね。
なるほどね~
返信する
そうなのです。 (伊藤哲也)
2010-03-16 01:15:28
大勢の方々が関係して、今の所有者の
手元に。 ただ、北海道から日野に
維新後になって持ち帰った話もありますが。
市村は、刀とかは持ち帰っておりません。
秋月も確かに、斗南から北海道に渡っているの。そうなってくると、私もお手上げ。
高橋忠盛が誰なのかだけ明確ではありません。
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