大佗坊の在目在口

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旧会津藩士海軍少尉補雪下熊之助

2010-11-22 | 掃苔
明治13年6月7日、海軍省で作成された「西南の役死没者官姓名
族籍等取調方」という資料が残っている。
「明治十年西南之役戦死者始メ其他以前ニ係ル者ト雖トモ九州地方
ニ埋葬致置候分東海鎮守府協議之上取調可差出旨として夫々取調
別冊正副弐通相添此旨上申仕候也」と軍務局長海軍少将林清康が
海軍卿榎本武揚に上申している。この取調書には、別冊「明治七年
以来九州ニ於テ死亡之者人名及埋葬地等明細表」が添付されていた。

この別表に「少尉補明治十年三月廿一日於肥後船津戦死長嵜稲荷嶽
廿四年雪下熊之助」と記載されている福島県士族がいる。

長崎軍人墓地は海軍省によれば「明治七年征台ノ節陸海軍陣歿者ヲ
長崎県下小島郷梅ヶニ埋葬翌八年三月二十二日梅ヶ招魂場ニ於
テ祭典ヲ行ヒ長崎在泊ノ軍艦仕官以下拝礼ス是レ長崎海軍墓地ノ起源
ナリ次デ十年西南役ノ際同県小島郷稲荷嶽ニ陸海軍軍人軍属ノ埋葬地
ヲ設置シ翌十一年以降海軍省ハ陸軍及内務省ト協議ノ上向後長崎港へ
回艦ノ節乗組軍人軍属死亡者は平時ト雖同地へ埋葬スルコト」となった。
(旧梅ヶ墳墓地)


十二年一月二十一日埋葬地は長崎県庁の管理に移ったが、同年県庁は
無断で梅ヶ招魂場埋葬者を新設の稲荷嶽埋葬地に改葬して台湾之役
招魂社としたが十四年五月陸海軍両卿に抗議され、県の不始末として
処分の上、招魂社墓碑に改正させられている。 
(受二一八号、五月廿四日決、長崎県下招魂社ノ墓碑ニ改正ノ件)
(佐古墳墓地入口)






明治二十年、長崎佐古軍人埋葬地は市街地にあるため、環境、衛生管理上の
問題があり、新たな軍人埋葬用地として明治二十一年から二十三年にかけて
長崎県北松浦郡山口村の民有地を海軍所轄官用地として編入した。

長崎市西小島2丁目にある佐古墳墓地(仁田小学校裏)に西南ノ役戦死者
墓標でひときわ立派な海軍少尉補雪下熊之助の墓碑があった。



この福島県士族雪下熊之助については、海軍葬喪史料によく名が出てくる。
不思議に思ったら、雪下熊之助は海軍兵学校出身者(第3期卒)で最初の
戦死者だった。ちなみに、明治十一年第5期卒に旧会津藩士出羽重達大将がいる。
雪下熊之助が海軍少尉補として任官したときの保証や、長崎病院で熊之助が
所持品の処分を依頼したのが旧会津藩士で当時、同じ清輝艦に乗組していた
海軍少尉角田秀松。

雪下熊之助の父は熊蔵、熊蔵二男の雪下豊治は戊辰役で若松城内戦死、
熊之助との関係は不明だが雪下熊次郎も戊辰役で戦死している。

長崎佐古軍人埋葬地で、清輝艦乗組士官拠金により建立された旧会津藩士
の墓碑を眺めていたら、近所の人が声を掛けてきた。このお墓だけは毎月
きれいなお花がお供えしてあると教えてくれた。

参考
海軍少尉補雪下熊之助奉職中履歴
(軍務局兵籍課、明治十一年一月十日調より)
明治四年八月海軍生徒兵学校入寮申付
同七年二十三日支那事件之節雲揚艦乗組長崎表出張
同八年四月二十四日傳習ノ為筑波艦乗組日本海一周航海
十二月六日実地研究ノ為メ品海抜錨米国桑港航海
同九年六月廿四日清輝艦乗組九月六日任海軍少尉補
同十年清輝艦乗組熊本県船津近海測偵ノ為メ小蒸気船エ乗組測偵中
銃創ヲ被リ同月廿一日於長崎病院死去
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