大佗坊の在目在口

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上海交易 千歳丸

2010-09-13 | 會津
文久元年(1861)二月、幕府は外国通商貿易を試みるため
外国掛役人に派遣場所、船舶、人員等について問い合せをしている。

外国掛有司は評議の結果、交易の中心であった唐国上海が外国貿易の
模様其他探索の試みや実地商法の見聞に適しており、船舶については
所有の軍艦は今修復中であり商船を派遣し支那と通商条約を取結ぶ
ことを早く決定すべきとしている。

幕府は八月、長崎奉行に対して商船借入其他の段取りを指令した。

文久二年三月、幕府は外国船の傭船より購入を考え、三本マストの
木造帆船アーミスティース号を代金三万四千弗にて買い取り、
千歳丸と改め帆柱に日の丸を掲揚したという。

千歳丸は文久二年四月二十九日、長崎を五百七十二哩先の上海に向け
鎖国後、初の官貿易船として出帆した。

英人は船長ほか乗組員十三名と和蘭商人一名と日本人乗員は、
江戸役人五名、長崎会所役人三名、長崎地役人七名、長崎本商人三名、
従者十九名、従僕四名、賄方六名、水夫四名、計五十一名であった。

御勘定 根立助七郎、 従者(実は会津藩)林 三郎、
同(実は佐賀藩納富六郎左衛門養子)納富介次郎
調役並 沼津半次郎
従者 松本卯兵衛、 従者(実は佐賀藩足軽)深川長右衛門
支配勘定 金子兵吉
従者(実は尾州の人)日比野掬次  同(実は大阪の人)伊東郡八
御徒目附 鍋田三郎右衛門
従者(江戸の人)木村傳之助  同(実は井上河内守殿家来)名倉予何人
英学に付 中山右門太
従者(実は佐賀藩足軽)山崎卯兵衛  同(阿州の人)桜木源蔵
定役 中村良平  従僕 芳蔵
御小人目附 盬澤彦次郎     従者 中牟田倉之助
御小人目附 犬塚三郎     従者(実は長州藩)高杉晋作
吟味役並  森寅之助       従者 長蔵
唐小通詞  周恒十郎       従者 藤太郎
唐小通詞助 蔡善太郎       従者
蘭小通詞  岩瀬弥四郎      従者 岩瀬碩太郎
薬種目利頭取  渡辺與八郎    従者 傳次郎
筆者格   松田兵次郎      従者 卯市
医師  大村藩尾本公同      従者(実は大村藩)峯源蔵
商人 永井屋喜代助    従僕(実は江戸薬種屋越前屋)惣吉
商人 松屋伴吉     従者(実は不卜斎と云う細工人也)甚三郎
商人 鐡屋利助      従僕 佐吉
賄方
嘉市  吉蔵  嘉吉  善吉  清助  兵吉
水夫
(実は薩州藩五代才助)才蔵  (実は薩州藩船手之者)忠之進
八蔵  元次郎

寛永鎖国いらい始めて官船による貿易渡航に佐賀藩、薩州藩、大村藩、
長州藩、会津藩と多くの藩士が身分を変えて各自其々の目的で乗船していた。

佐賀藩士、中牟田倉之助伝で「閲し来って所感尠なからず。幕吏の
一行に雄才大略の人無きことは其一なり。何の所以なるかを知らず。
従者に各藩有為の士の多きことは其二なり。此行が重要視せられたりし
こと以て察すべきか」と初の官貿易船の乗員について述べている。

千歳丸の積荷のなかには会津産和人参二千五百近が含まれていたが、
上海における貿易は全て和蘭の貨物として和蘭領事館を通して行ったため、
荷の保管料や売買手数料、それに高い税金により貿易としては利益が
出なかったようだ。

会津藩士林三郎は長州藩高杉晋作、薩州藩五代才助、佐賀藩中牟田倉之助
たちと七月十四日に長崎に帰港するまで同行していたことになる。

このあと、慶応二年六月から会藩林三郎の名は勝海舟の「海舟日記」に
頻繁に出てくるようになる。戊辰後、静岡で西郷頼母など西伊豆に行った
旧会津藩士が会っていた林三郎がこの人だった。    (つづく)
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