大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

佐藤忠信花矢倉

2008-04-19 | その他
吉野の金峯神社から下り、水分神社を過ぎたところに、
佐藤忠信花矢倉と刻まれている一つの石柱があり、
その下方に、横川の覚範の首塚がある。

義経記に「音に聞こたる剛の者有り、、、鎌足の大臣の御末、
淡海公の後胤、佐藤憲高が孫、信夫の佐藤庄司が二男、
四郎兵衛藤原の忠信と言ふ侍」と佐藤忠信の記述がある。

ここ花矢倉附近は、佐藤四郎兵衛尉忠信が源義経の身代りとなり、
手勢七人で追手と戦い、僧兵妙覚院の豪僧、横川の覚範を討取った所。

吉野町が立てた「佐藤忠信花矢倉」「横川覚範の首塚」の
説明板があった。詳しくは、義経記を読んでくれとある。
花矢倉、綺麗な地名に、酷い話が隠れていた。

この義経記は一般的には室町時代初期に成立した作者不詳の
軍記物語といわれているが、異本が少ないのが特徴。
読む事が少なく、口伝の期間が長く写本の必要がなかったのか?

義経記は前半に義経、後半は、吉野山の佐藤忠信、鎌倉での静御前、北国落では武蔵坊、
高館では鈴木兄弟と主役が移っていく。柳田國男は各部分の作者は各々別で、
多くの物語を寄せ集めて物語にしたと述べている。

吾妻鑑、文治元年十一月の項によれば、
「佐藤四郎兵衛尉忠信、義経の鎮西に零落の相従う」
「疾風俄に起こって逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止む。
伴類分散し豫州に相従うの輩纔に四人」とあり、
この四人の中には、佐藤忠信の名はない。

文治二年九月、京都に隠住していた四郎兵衛尉忠信は、
糟屋の籐太有季に攻められ、忠信郎従二人と共に自刃した。

京都国立博物館前庭に佐藤継信・忠信の塚であると伝えられた
二つの十三重塔がある。この塔は、継信が屋島で討死、
京都で忠信が自刃してから百年以上も後に建てられた。

また、東山区馬町通東大路東入北側には、
今でも、佐藤継信・忠信之塚が残っている。

何度も云うが、信夫の継信・忠信兄弟の嫁の話には涙する。
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