会津藩 家訓十五條の第一条は、
一、大君之儀一心大切可存忠勤不可以列國之例自處焉
若懐二心則非我子孫面々決而不可従
「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て
自ら処すべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、
面々決して従うべからず」
Wikipediaの説明によれば、
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が
裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と
記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の
中心的存在として最後まで官軍と戦った」とある。
前から疑問があった。第一条にある「大君」は何と読むのだろう?
「おおきみ」なら天皇、「たいくん」と読めば将軍の事になる。
読み方や解釈で忠勤を尽す相手が違うことになる。
会津藩が家訓十五條を制定したのは寛文八年(1668)四月、
松平家譜によれば、この年の二月に松平の名と葵章の使用を
許されたが、正之はこれを辞退したとある。
藩主の行動を正当化するため、後世に色々な細工が必要
だったのだろうか?
最近、福商の教師だった郷土研究家、坂内 萬氏が昔、
会津史談に書かれた「大君の辨」という史料を読んだ。
正之公が学ばれた吉田神道の奥義に「以護君之心」とあり、
この君とは覇者たる将軍の謂ではなく、山崎闇斎に学んだことを
一言でいえば「大義名分」であり、垂加神道を起した理由も
ここにあるとしている。
十五ヵ條制定の五年前の承応二年、将軍家の代参として、上洛参内
された際に用いた傘に模して創制したのが会津藩馬印の参内傘で、
これを永く子孫に伝えて、勤王の意思を表したと云われている。
天保八年(1837)に藩士遠山為章が大君之儀を
「我公将軍幕下懿親也」と注をいれて家禄を没収されている。
(懿親=近親)この時の藩主は高須藩主松平義和四男の容敬公。
この時、大君の解釈は天皇だったことになる。
戊辰戦争論やその後の明治維新(明治一新)論を読むと家訓で
いう大君は「おおきみ」ではないかと思う様になってきた。
一、大君之儀一心大切可存忠勤不可以列國之例自處焉
若懐二心則非我子孫面々決而不可従
「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て
自ら処すべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、
面々決して従うべからず」
Wikipediaの説明によれば、
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が
裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と
記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の
中心的存在として最後まで官軍と戦った」とある。
前から疑問があった。第一条にある「大君」は何と読むのだろう?
「おおきみ」なら天皇、「たいくん」と読めば将軍の事になる。
読み方や解釈で忠勤を尽す相手が違うことになる。
会津藩が家訓十五條を制定したのは寛文八年(1668)四月、
松平家譜によれば、この年の二月に松平の名と葵章の使用を
許されたが、正之はこれを辞退したとある。
藩主の行動を正当化するため、後世に色々な細工が必要
だったのだろうか?
最近、福商の教師だった郷土研究家、坂内 萬氏が昔、
会津史談に書かれた「大君の辨」という史料を読んだ。
正之公が学ばれた吉田神道の奥義に「以護君之心」とあり、
この君とは覇者たる将軍の謂ではなく、山崎闇斎に学んだことを
一言でいえば「大義名分」であり、垂加神道を起した理由も
ここにあるとしている。
十五ヵ條制定の五年前の承応二年、将軍家の代参として、上洛参内
された際に用いた傘に模して創制したのが会津藩馬印の参内傘で、
これを永く子孫に伝えて、勤王の意思を表したと云われている。
天保八年(1837)に藩士遠山為章が大君之儀を
「我公将軍幕下懿親也」と注をいれて家禄を没収されている。
(懿親=近親)この時の藩主は高須藩主松平義和四男の容敬公。
この時、大君の解釈は天皇だったことになる。
戊辰戦争論やその後の明治維新(明治一新)論を読むと家訓で
いう大君は「おおきみ」ではないかと思う様になってきた。
正之公の言う「大君」は「タイクン」家光のことだろうなぁと思っていたのでひいては将軍家の事だろうと
信じきってました。
最初から「おおきみ」のことだったんですかネ?
それとも途中から「おおきみ」になっちゃったの?
でも少なくとも文久2年のあの時、京都守護職を押し付けようとした人たちは「会津藩は将軍家に忠誠を誓う藩」という意識だったんですよね?
旧年中は大変お世話になりました。
今年も宜しくお願い致します。
確かに会津松平家の馬印は参内傘ですもんねぇ。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
さて、大君ですが、吉川神道・垂加神道などから
(読んでもあまり理解出来ませんでしたが)
尊皇精神を家訓第一位に持ってきて、会津における
祭政一致の理想を追求したものと思います、
従って大君がタイクンになったのは、
幕末の数々の失政を覆い隠すため、明治後半からの
回顧録などで言い出したことではないでしょうか?
安味さん
おめでとうございます。
今年も宜くお願い致します。
しかし、安味さんの行動力には
いつも感心してしまいます。
すこしは安味さんを見習わなくてはと
痛感しています。