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大佗坊の在目在口

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正之公生母浄光院とその周辺(3)

2015-04-06 | 會津

井上主計頭正就母永田氏の事

「落穂集」による幸松丸(保科正之公)誕生の場面の登場人物は、神尾伊豫栄加一族のお静が仕えたのが大うば様と呼ばれていた井上主計頭正就の母(永田氏)と台徳院の乳母で大姥局と呼ばれていた川村善右衛門重忠の妻(岡部氏)。この「大うば様」と「大姥局」が別人なのか同一人物なのか、「落穂集」を残した大道寺友山の記憶違いなのか、それとも写本の写し違いなのか、ハッキリしないが井上主計頭正就とその母で大うば様と呼ばれた永田氏、川村善右衛門重忠とその妻で台徳院の乳母で大姥局と呼ばれた岡部氏はそれぞれどんな一族だったのだろうか。

台徳院に仕えた井上正就(母は井上正秀後妻永田氏女)は源頼信三男頼季を遠祖とするが、寛政重修諸家譜に主計頭正就父清秀について「実は阿部大蔵某(注・藩翰譜に阿部大蔵少輔定吉)が男なり、母は星合氏の女、はじめ大蔵が妾たり、懐胎して後半左衛門清宗(注・家康家臣大須賀五郎左衛門康高に属す)嫁し、清秀を生り、これより清秀井上を称し、後織田家の将佐久間信盛に属して摂津国天王寺に陣す、後大須賀康高に属し遠江国横須賀の城において防戦す」とあり、清秀の三男正就は天正十七年、十三歳のとき台徳院の御傍に仕えている。姓氏家系大辞典に武蔵国多摩郡小川の井上氏の項に「先祖を伊豫尉と称し、小田原北條家人なりと云。当時の軍記等に北條旗下の士に井上某と名乗し人もまま見ゆれど、伊豫といひし人はいまだ見ず」「鉢形の分限帳に井上三河守見え、、、遠祖は武田氏に仕へしが、天正十年甲州滅亡の後、北條安房守氏邦に仕へ」とある。

井上主計頭様御母について寛政重修諸家譜記載の永田氏(長田氏)系譜にその名の記載がないことから今川家、武田家、北條家のいずれかに仕えた永田氏の娘と考えられるが、神尾越中守の名が在る北條御旗本備四十八番衆の中に長田但馬守の名がある(小田原秘鑑)。
井上主計殿御母については会津藩「家世実紀」では「台徳院之御乳人にて大乳母殿と唱」とあり、「落穂集」では「井上主計殿御母儀(世上に於て御うば様と申:分注)主計殿方へ御姥の局宿下」と記載されている。井上清秀三男正就が生まれたのが天正五年(1577)、秀忠(台徳院)の誕生が正就の二年後の天正七年(1579)、清秀四男政重が生まれたのが天正十三年(1584)、夫清秀が亡くなったのが正就二十七歳の慶長九年(1604)、台徳院が将軍に就いたのが翌年慶長十年(1605)なので、御うば様と称された主計頭の母が江戸城内に住み始めたのは夫清秀が亡くなった後と考えれば、慶長十年前後の頃ではないだろうか。正就・政重の生まれや、夫清秀の没した年に間違いがなければ主計頭の母が台徳院の乳母だと云うのには無理があるように思われる。

正之公生母浄光院とその周辺(4)


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