大佗坊の在目在口

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高岡 極楽寺から妙国寺へ

2019-08-21 | 

高岡新西国三十三観音札所四番札所だという博労町の極楽寺を訪ねた。
 
 
あとで高岡諸寺院由緒聞合帳をみてびっくりした。高岡に同じ山号を持つ極楽寺が二ヶ寺あり、一瞬、訪ねたお寺を間違えたかと思った。安養山守山極楽寺と安養山富山極楽寺、守と富の一文字違いの浄土宗のお寺で、いずれも前田利長の高岡築城の折、それぞれ守山、富山から富岡に移転し、守山極楽寺、富山極楽寺と呼んでいるという。聞合帳に安養山富山極楽寺は慶長年中、富山より高岳へ引越、坂下町に居住したとある。一方、安養山守山極楽寺は後醍醐天皇第八王皇子宗良親王(越中宮佛眼明心法親王)を牧野郷に迎え後醍醐天皇の三回忌に一宇を創建し、自ら開山とし号して安養山極楽寺と名付けという。その後、牧野から守山の西海老坂に移ったが、前田利長が関野を高岡と改称して移城、それに伴って高岡に移ったのが守山極楽寺で、安養山富山極楽寺は南朝方の郷士が宗良法親王を開山に勧請して創建された寺だという。
 
 
極楽寺に神仏習合の名残で境内に八の宮稲荷社、本堂には熊野権現様がお祀りされていて、なにがごちゃごちゃしたお寺さんだった。馬喰町から利屋町(とぎやまち)にある大法寺に向かう。
 
 
富岡は古い町名が残って利屋町も何と読むのか分らなかった。寺のH・Pによると「海秀山高岡大法寺は亨徳三年(1453)、京都大本山本圀寺第九世妙勝院日曉聖人の弟子、栄昌院日能聖人が、越中国開教の命を受け、越中国放生津(現在の富山県新湊市)の地に本圀寺布教所として開創された寺院である」という。(注:亨徳の年号はないので享徳の間違い。享徳三年は1454年)。放生津から守山、富山に移転後、慶長年中に高岡へお供したという。この大法寺、とりわけどうというお寺では無いと云ったら怒られてしまうが、この寺の門前に大変貴重なものがあったのに見逃してしまった。大法寺の門前左側に建っていた汚い木柱が入らないように山門の写真を写した。この木柱が明治時代初期の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とする里程調査のために定められた道路元標の富山県里程元標「高岡」で、北陸街道の一つの基点となっていたもので、復元木柱の里程元標は全国でも数基しかなく後で分ってガックリした。
大法寺のお隣の龍雲寺に寄る。入口に大きな「高岡之新西国第一番霊場」の石標がある。
 
 
 
射水郡高木城主龍雲入道は射水小杉に高木山龍雲寺を創建、慶長年中高岡の瑞龍寺内の拝領地に移ったが、瑞龍寺再興用地に召上げられ現在の利屋町に移転したという。万葉線という私電に一度乗りたくて、龍雲寺から一番近い片原町の駅に向かう。
 
道路に青いペンキで長方形に塗り、中に「電車のりば」と白いペンキで書かれているのが電車の停留所だったので驚く。この停留所の前にあったのが守山から高岡に移転した妙国寺で、この妙国寺は本陽寺、立像寺、本光寺、妙伝寺の五個寺組頭役だったという。
 
 
また高岡の西方丘陵にあった一向衆寺院、西方八ヶ寺(本陽寺、本光寺、妙国寺、長蓮寺、法光寺、妙伝寺、大法寺、立像寺)の一ヶ寺でもある。境内に「勤皇志士山本道斎追墓□」があった。幕末に頼三樹三郎が高岡の片原町医者山本道斎の書堂牛馬堂に身を寄せ「牛馬堂記」を残している。高岡のお寺を駆け足で回った。慶長以前に関野にあったのは、総持寺、本陽寺、浄土寺の三箇寺で、ほかの寺はすべて慶長年間かそれ以降に移転、または新しく建立されたお寺だという。ただ総持寺と瑞龍寺との関係が、今一つ分らなかった。

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