ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

母へ

2020年02月17日 | 家族とわたし
何年も前から、ずっと足の不調を訴えていた母が、先日の12日にとうとう手術を受けた。
いろんな病院のいろんな科の医者に診てもらい、詳しい検査を受けても、どこにも問題が見つからず、自律神経の問題か、もしくは心的なものではないかと言われ続けてきた。
インターネットを使って話している間のほとんどが、痛みや痺れ、そして歩行困難についての愚痴話になって、辟易することもしばしばだったけど、
帰省した際に必ずと言っていいほどに出かけるパークゴルフでは、本当に足が痛いの?と聞きたくなるほどにスタスタとコースを歩いたりするので、弟とわたしはこっそりと「やっぱり気の病かも」などと陰口を叩いたりした。

母は老いを認めたくない人だ。
実際もうあと数年もしたら米寿を迎えるというのに、肌の張りが良く、実年齢には絶対に見えない。
だから気持ちも若いのか、そんな自分が老人のようにヨタヨタと歩くことしかできないくらいなら生きていても仕方がない、などと罰当たりなことを言う。
いえいえおかあさん、あなたは立派な正真正銘の後期高齢者ですよと、心の中でブツブツ呟くわたしなのだけど、
車の運転だって見事だし、かなり難しい車庫入れだってスルッとこなす彼女にとって、わたしたちのように歩けないということが本当に受け入れ難いことなのだろう。
などと言っているわたしなど、掃除機をかけ終わった瞬間に腰が伸びずにヨタヨタしたり、猫トイレの掃除を終えて立ち上がろうとしたらよろけたり、先が思いやられる今日この頃なのだ。
でもまあ、60を3つも超えたらこんなもんじゃないかと思う。
とりあえず健康オタクの夫がうるさいし、わたし自身も必要だと思っているので、YMCAに通って運動はしているんだけど。

話がそれた。
今年に入り、またまた体調が悪くなり、それがようやく治ったと思ったら今度は酷い咳風邪にかかってしまい、母に連絡を取らずに日が経ってしまった。
母は、2月末に東京で行われる初孫の結婚式も、こんな年老いた惨めな姿(本人だけがそう思っている)を誰にも見られたくないという理由で出席を断っていた。
いずれにせよ、母の体調もあまり良くなかったし、寒い季節に東京まで出かけるのは大変だろうと思い、まあしょうがないなと思っていた。
でももしかしたら、母は心の奥底で、せっかくの初孫の晴れ舞台を見に行けない自分のことを、無意識に責めていたのかもしれない。
そして行けない理由を確固としたものにするために、足の不自由さを解決するには手術しかないと決め、何が何でも手術を施してくれる医者を見つけようとしたのかもしれない。
なんて勝手な妄想をつらつら並べてみたけれど、本当の事は誰にもわからない。
今わたしにできることは、3時間に渡る大きな手術を果敢に受け、颯爽と歩ける日を夢見てリハビリに挑戦する母を、ただただ応援することだ。

いよいよ手術の時間が近づいた日の夜(時差が14時間あるので)に電話をかけると、手術のための最終検査や準備、それから術後の過ごし方のレクチャーで大忙しだった母は、もうすでにクタクタで「疲れた」を連発していたが、ずっと長い間望んでいたことが叶うからか、少々興奮気味の声で「心配せんでええよ」と言っていた。

ネット電話を切ってから、なぜか胸が苦しくなり、なぜわたしはこんな遠くに離れたまま、母の手を握り「大丈夫、わたしがついてるからね」と声をかけてやれないのだろうと思ったりした。
夫が何か話しかけても上の空で、「そんなに心配なのか?」と言われたりした。
彼女の手術が始まる時間から終わる時間までずっと、無事に終わりますようにと祈った。
夜中に義父から電話がかかり、「無事終わって元気に寝てる」と聞き、元気に寝てるって…とクスッと笑った。

病院は完全看護で、スタッフのみなさんもお医者さんがとても親切で頼りになるからと、弱っている自分を見られることを極端に嫌う母は、これ幸いにと誰の見舞いも断っている。
義父でさえ、今度行くのは退院の時ぐらいなどと、冗談か本気かわからないことを言っている。
わたしも絶対に来るなと言われたけど、ちょうど4日ほど京都に滞在するので、命令を無視して押しかけようと思っている。

などと考えていたら、今朝まだ窓の外が真っ暗な早い時間に、突然ネット電話の呼び出し音が鳴った。
慌てて取ると、向こうからテレビの音声が聞こえてきた。
何かいけないことが起こったのかと一瞬ドキンとしたけれど、その日常そのものののんびりしたテレビの声を聞いてひとまず安心した。
何度も「もしもし」と呼びかけたのだけど、母には聞こえなかったみたいで、「あー」という母らしき声が一度聞こえただけで終わってしまった。
いずれにせよ母は無事で、そのことをわたしに伝えたかったのだなと思い、胸が熱くなった。

起きてから、遠く離れていてもできることが無いかと思い巡らせているうちに、母が昔、目の見えないおじいさん(赤の他人さん)のために、本を朗読したカセットテープを送り続けていたことを思い出した。
母の部屋は個室でテレビもあるし、体に繋がれた何本もの管が外された後は本も読めるようになるだろう。
けれども目を閉じながら話が聞けるっていうのもいいんじゃないかな。
さっそく本箱の前に立ち、どの本にしようか散々迷い、本当なら外国のミステリーものが好きな母だけど、まだ痛み止めと睡眠薬が無いと眠れないようなので、うんと軽いものから始めることにした。
録音したものをLINEで母に送った。
まだ既読にはなっていない。
喜んでくれたらいいな。

追伸
音読っていうのは本当に久しぶりで、今はもうすっかりおっさんになった息子たちに絵本を読んでいた頃から数えると、実に30年ぶりのことだ。
実際にやってみるとなかなか難しいもので、感情を込めすぎたり読み間違えたり、読むときには全然気にせずスルリと読めてしまう四文字熟語につと引っ掛かったり…。
録音してから聞いてみると、なんかリズムが悪くて聞き辛かったり早すぎたり遅すぎたり…。
朗読って奥が深いなあ。

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