ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

ひとり旅「東京・友だちの巻」

2015年12月04日 | 友達とわたし
旅行から戻って丸4日が過ぎた。
ただいま、というか今だに絶賛時差ボケ中。
それでもなんとか、朝から日中にかけての伴奏リハーサルと、夕方から夜にかけてのレッスンをこなし、夕飯を食べ、お茶碗を洗うぐらいまでは、とりあえず起きている。

けどその後がいけない…。

ちょっとでも座ろうものなら、頭がジンジンと痺れたみたいになり、目玉に不透明な薄い布を被せられたような気がして、コトンと寝てしまう。

使用停止になったままのiPadはもちろん未解決。
だからパソコンだけが頼りなのに、その前に座った途端にトロトロとしてきて、おでこが机の上にくっついていく。
夫に呼ばれて、バネ仕掛けのおもちゃみたいに起き上がると、おでこには見事な日の丸ができている。

旅日記を付けるために持ってったiPadは、ワイアレスのキーボードの電源を切るのを忘れ、カバンの中でランダムにキーが押されたからか、旅行2日目にして使用不可になってしまった。
連絡用のメモや時刻表など、移動時に活用しようと思ってたのに、それが全く不可能になった。
おまけに手書きのパスワード帳を、家に置き忘れてきてしまった。
もちろん、日本で使えるような携帯電話も無い。
だから滞在中は、いろんな人に、心配や迷惑をかけてしまった。


母が80歳の誕生日を迎えてからは、日本には毎年行こうと決めた。
今から15年と8ヶ月前の誕生日に、こちらに移り住んだのだけど、お金のやり繰りが大変で、息子たちがすっかり大人になってしまうまで、帰省は3年に一度が精一杯、という状態が続いた。
今年母は81歳、弟は55歳。
日本に居た頃でも、1年のうちにいったいどれほどの日数を一緒に過ごしたかというと、実はそれほど多くはなかった。
電話やメールのやり取りも、多分少ない方だったと思う。
だからせめて、日本での滞在中は、今までの無沙汰を挽回するためにも、少なくとも10日間ぐらいは一緒に時間を過ごしたい。
となると、2週間の日程では、友人や恩人、そして親戚の人たちと会う機会が、極めて限られてしまう。
いつか近いうちに、せめて3週間、できたら1ヶ月、などという時間をとって、日本を訪れることができたらなあと夢見ている。
そして、福島や辺野古、さらには普段から気になっている地域にも足を運び、自分の目で見、耳で聞き、肌で感じ、頭でっかちになっている部分を修正し、
いろんな方向から、いろんな考えを持つ人たちの生の声を聞き、それらを咀嚼しながら、自分の心の中をじっくりと見つめたい。

母も弟も、わたしを支え、深く愛してくれているが、思想や信念はそれぞれに違う。
テレビのニュースやワイドショーなどを一緒に観ていると、その違いは顕著に現れる。
本当は、その時をチャンスとみて、腹を割って話せたらと思うけれど、普段からそういう議論が不得意な傾向がある上に、せっかく久しぶりに会えたのだから、穏やかな気持ちで時間を過ごしたい、などと思ってしまう。
でもまあ、波風が立たないぐらいには、一言ツッコミぐらいはする。
ほとんどは聞き流されてしまうのだけど…。

母と弟とわたしの3人のうち、誰が一番偏っているのかという点でいうと、きっとそれはわたしだと、彼らは思っているだろう。
わたしは日本で暮らしていないから、NHKも民放も観ないし、町や村で配られる広報やチラシを読むこともない。
だから、わたしが再三非難している政治家や企業家が、無論いつも悪いことばかりをしているのではなく、人や地域の助けになることもしていることを、肌身で知る機会は無い。
助けられた人や、それを間近に見た人は、助けてくれた人や企業に感謝をするし、支持もする。
極端なことを言えば、前代大統領だったブッシュだって、彼は良い人だ、優れた政治家だと思っている人もいる。
彼もあのような立場の政治家でなく、市井の市民であったなら、気のいいおじさんで、良き隣人でもあったかもしれない。
けれども、同時多発テロを巧みに利用し、軍産複合体の意のままに嘘をつき、イラク戦争に人々を巻き込んだ首謀者なのだから、罪に問われなければならない。
この世には、やっていいことと悪いことがあると、子どもの頃からよく聞かされてきた。
どんなに人のためになることをやっていようが、別のところでやってはいけないことをやったなら、その人や企業は非難され、断罪されなければならない。
人も企業も、表と裏、あるいはその狭間に、いろいろな顔を持っている。
あの人に限って…と誰もが思うような人が、実は恐ろしい犯罪を犯していたり、優れた機械や製品を作る企業が、人殺しや破壊のための武器を作っていたりする。
実際には、それらの悪事に手を染めていなくても、ほう助したり、資金を与えたりしている人や企業となると、もっと多くなる。
それらの人々や企業が犯している過ちに、見て見ぬ振りをしている場合ではない時にきている。
わたしたち市民の一番の力は、小さなことの積み重ねができるということだ。
ひとりひとりの人が自分の目で見張り、頭で考え、口を出したり体を運んだりすることが積み重なっていくと、社会は少しずつ動いていく。


人はそれぞれに、良いことだと信じていることがある。
そしてその良いことを実現することもまた、その人にとっては正しいことになる。
だからそのことを行うことによって、理不尽に殺されたり傷つけられたりする人や、二度と再生できないほどに破壊されたりする町や自然があろうとも、それはやむを得ないことだとみなす。

「国が一番」
そう公言してはばからない日本会議は、今や国会議員の大多数を抱え込み、国粋主義的右翼のシンクタンクとしての役割と同時に、国民運動を展開する動員力を兼ね備えている。
「美しい日本を再建する」という文言を筆頭に、天皇をいただく統治体制を復活させ、憲法を改定し、帝国主義を唱えていた頃の日本に戻そうとしている。
その思想を植え付けるのに充分な根を至る所に張り巡らせ、教育の場では歴史教科書を編纂し、今やありとあらゆる場で、転覆のチャンスを伺っている。
彼らも、自分たちの信念が正しいと考えている。

数量では到底叶わない、別の、あるいは全く逆の信念を持つわたしはだから、日本を訪れるたびに、目に見えないけれど確実にそこにいる化け物の、空気をまるで通さない体に覆われて、さらに息苦しくなっているように感じる。
テレビの画面には、我先にウケを狙うタレントたちや、本当に大事なことを伝えないニュースキャスターたちが、ひっきりなしに現れては消えていく。
知らなければならないことの多くは、きつかったり辛かったり、受け入れることに抵抗を感じる。
時には知ることによって、パニックに陥ることもある。
だから知らせない方がいいのです、とばかりに隠したり、伝えることを怠ったり、ましてや権力や金に操られている報道機関の罪は大きい。
それはなにも、日本に限られたことではないけれど…。

などと、首都高を走るバスの中で、JR中央線の電車の中で、国立の町の通りで、東海道新幹線の中で、そして飛行機の中で、思いを巡らせた2週間。


日本に着いてすぐに、あさちゃんとの待ち合わせ場所に向かった。
首都高にこんなにトンネルが多いとは知らなかった。





あいにくの雨降り。
待ち合わせ場所のホテルで再会のハグをして、そのすぐ後に、「温泉に行こう!」と誘われた。
おっきな荷物を車に置いたまま、『ザ・湯』でひとっ風呂もふたっ風呂も浴び、塩サウナを初体験し、館内のレストランでご馳走になった。
なんたる至福!
旅の疲れが吹っ飛んだ。
東京での二日半の滞在中の日程を、出発ギリギリまで決められずにいたので、宿泊先のホテルの予約が遅れ、どこにも空きが無いことに気づいたのが出発の前日で、
だからあさちゃんが、「うちを使ってもいいよ」と言ってくれたのは、本当の本当にありがたかった。
あさちゃんは会うごとに、新しいことにトライしている。
そのいちいちに驚いていては身がもたないのだけれど、今回のには心底びっくりした。
ご飯を食べなくても全然平気で、だから日本食はあまり好まないはずだった彼女が、グルテンフリーの食事に切り替えたからと、朝から玄米とお味噌汁、そして常菜のおかずをご馳走してくれた。
しかも玄米は、自分で発芽させた発芽玄米ときた。
別にアレルギーがあるわけでも無いのに、どうしてグルテンフリーなんかに?と聞くと、ジョコヴィッチの本を読み、それから関連する本を読破して、トライすることを決めたそうな。
「まうみもさ、ビルがすでにやってんだから、トライし易いんじゃない?」とあさちゃん。
「いやあ、カフェインもアルコールも甘いものもすべて禁止の、わたしにとってはかなりキツい状況の中の唯一の楽しみ、いや、最後の砦がパンなので無理!」と言うと、
「まあいいから、読むだけでもいいから読んでみ?」と渡されたのが、『ジョコヴィッチの生まれ変わる食事』。
表紙には、「あなたの人生を激変させる14日間プログラム」と書かれてある。
ううむ…。
うちの家族の中で、いち早くグルテンを絶ったのが義母。それに続いて夫が、数年前からグルテン絶ちをした。
だから確かに、わたしさえ決めたら簡単なのだけど…などと、心をグラグラ揺らせながら読んでみた。
そして、半分ぐらいまで読み進める頃にはもう、よし、旅行が終わったらやってみよう!と決心していた。


「まうみ、東京の移動はSUICAを使うと便利だよ」とあさちゃんに教えられ、横浜に向かう電車に乗るのに早速使ってみようと、自動販売機の前に立った。
ところが…よく分からないのである。
アメリカ郊外の電車事情のお粗末さにすっかり慣れてしまったわたしには、便利なはずの機械が恐ろしく難解なのだ。
次から次へと人がやってきては、さっさと用を済ませて去っていくのを観察しながら、何とかやり方を学ぼうとしたが、誰ひとりとして新しく買い求める人がいない。
もうこれは無理だと判断し、緑の窓口に座っている駅員さんに、「すみません、わたしのためにSUICAを買ってもらえませんか」と頼んだ。
彼の顔に一瞬、「なんじゃそれ?」な表情が浮かんだが、それを素早く隠し、親切に買い求めてくれた。

苦労の末?にゲットしたSUICAを使い、朝から横浜在住の幸雄さん&美千代さんご夫妻、そして美保さんに会いに行った。
横浜の地理を全く知らないまま、「横浜駅まで迎えに行きます」と言ってくださった幸雄さんに、「じゃあお願いします」と答えてしまったのだけど、
駅から幸雄さんが暮らす町までは全然近くなくて、向かう電車に揺られながら、ああ申し訳ないことをしたなあと反省した。
近くのおうちレストランの、それはそれは美味しいランチをご馳走になり、第一目的の散歩に出発。

散歩道の途中にある、とんでもなく大きなお屋敷。


折しも菊の花の展示会が開かれていた。




町の人たちのために解放されている、昔ながらの家の中で。


母方の祖母が使っていたような台所。


さらに進んでいく。


暖か過ぎて紅葉が遅れている。


道のど真ん中に堂々と生えている木。


送電線の真下に家が立ち並んでいることに唖然とした。


家に戻ってから、幸雄さんが演奏するギターやバイオリンがわらわらと並べられている部屋で、あれやこれやの四方山話。
壁には、白紫陽花の下でこちらをじっと見つめている、亡くなる前日のショーティの写真が飾られていた。


偶然にも、幸雄さんのお家の近所だった美保さん。
去年、羽田空港で初めて会い、1時間ほど話しただけなのに、ずっと前からすごく仲良しだった友人のように話が弾み、あっという間に時間が過ぎた。
美保さんは話をしながら、次々に美味しいお料理を作ってくれた。

古くなった本棚を活用した、ご主人の手作り棚は、扉をわざと付けずに奥行きを浅くしているので、超~使い勝手が良さそう。


いきなり、「ほら、まうみさんも!」と言いながら、ピョンピョン跳んで見せてくれた美保さんのトランポリン。


これまたご主人の手作りのテラス。感動…。


翌朝も朝っぱらから幾品もご馳走を作ってくれた美保さん。
さよならをする前に、新しくできたモールを二人で散策し、今度はもっとゆっくり、と約束して別れた。


東京でいる間に必ずここへ!と思って日程を組んだ。
二郎さんと明日香ちゃんが、4年以上もの間、ほぼ毎週続けている国会前の抗議活動『希望のエリア』。
今回は、集会に行く前にまず、二郎さんの診療所に寄って、治療をしてもらうことになっていた。
約束の時間に間に合うように出かけたはずが、一本電車を乗り遅れてしまった。
乗り換え駅への移動中に、もうこれ以上遅れることがないようにと、自分が正しい方に向かっているかどうかを確認したくて、近くを歩いている人に尋ねた。
すると彼女はわたしの質問を誤解して、というか、わたしの聞き方が悪かったのか、彼女が教えてくれた通りに歩いて行くと、なんと駅の外に出てしまった。
そこから目的の、乗り換えた電車で一駅の所まで猛ダッシュで走ったけれど、なにしろ連絡のつけようがないまま30分も遅れてしまい、二郎さんを寒い外で待たせてしまった。
ああ自己嫌悪…。
暖かい治療室に入った時には汗まみれ。
それでも嫌がらずに、二郎さんは懇切丁寧に、そしてとても適切に、時間が来るまで治療を施してくれた。
ああ感謝感激…。

待ち合わせでやって来た明日香ちゃんと嬉しい再会をして、みんなで一緒に希望号に乗って国会前へ。
希望号の中には、たくさんの集会用の道具が、理路整然とぎっしり積み込まれている。
これらすべてが、彼らのこれまでの活動と想いの結晶なのだと、見ていて胸がじーんとした。

無駄のない、そして見事にオーガナイズされた準備が着々と進む。










ぽっかり浮かぶ国会。




初めて見た携帯用ギターを観察中の、希望のエリアの名コンビ&主催者、二郎さんと明日香ちゃん。


希望号!


リハーサル中。


音楽隊ドラム担当のみほこさん。


明日香ちゃんのスピーチとコールは、いつ聞いてもとても分かりやすく、愛に溢れている。その言葉を一つ一つ丁寧に、手話で伝えてくれる。


集まった皆さん。






大変な手術をして、今夜から復活されたお父さん。


しずみんとも再会できた。
彼女はエリアから少し離れた所で、手作りの光るブラカを手に静かに抗議。




自転車隊のみなさん。


希望の力を広げ続けている二郎さんと明日香ちゃん、スタッフの皆さん、そして通い続けている皆さん。
嬉しいことも辛いことも、そして嫌なことも、いっぱいいっぱいくぐり抜けてきた。
その強さ、しなやかさ、優しさが、若い人たちが立ち上がり始めたことの原動力になったのだと、わたしは信じている。
「こんな抗議活動など、一日でも早くやらなくても良いような世の中になって欲しい」
会うと必ずそう言う二人。
そうだね、ほんとにそう思うし願ってる。


打ち上げで連れてってもらったうどん屋さん。麺がめっちゃ美味しかった。



東京滞在を終え、三重県に向かう朝、「晴れたらベランダから富士山が見えるよ」とあさちゃんが言っていたので外に出てみると、
見えた!


やっぱり富士山はすごい!
新幹線の中からも、絶対に写真を撮りたいわたしは、必ず富士山が見える側の窓際に座る。


富士山よ、お願いだから噴火なんかしないでね。今のままの姿で、日本を見守っていてね。


日が暮れるのがとても早い。



大都会東京。
バスや希望号や電車の窓の向こうでは、大きなビルがぎっしりと建ち並び、そのビルの中では常に、大勢の人たちが働いていた。
その様子を目にしながら、わたしは心の底の底から祈り続けた。
どうか、この地に大きな地震が起こりませんように。
みんなが無事に、これからもずっと暮らせますように。
そして、そのようなことを祈らなければならないような特質を持つ国土の上に、稼働する核発電の施設が存在するというような恐ろしい現実が無になるよう、
災害による深刻な環境破壊を、再度起こすような愚かな国に成り下がり、世界から軽蔑や非難を受けるような羽目に陥らないよう、
甚大な放射能汚染を発生し続けるまま、4年と9ヶ月経った今もまだ、解決の道を見出せないでいるのを放置しているも同然の政府に、やるべきことをさせなければならない。
その事故のために暮らしを奪われた16万人のうち、今も避難生活を余儀なくされている12万人の人たち。
そんな悲惨な現状を抱えた国が、意味の無い人殺しの後方支援だの、原発の販売だの、オリンピック開催だのと騒いでいる。
だからわたしたちはこれからも、日本が倫理的に誤った道を歩まないことを確信できる日まで、市民の力の見せ所である集結と積み重ねを続けていかなければならない。
日本会議なんぞに負けるわけにはいかない。
大きな権力や、がんじがらめに固められたシステムや、責任逃れのために施行された条例や法律に、屈っするわけにもいかない。
細部に渡り徐々に侵し、食い込もうとする作戦に抗えるのは、細部に目が届くわたしたちのはずなのだから。
顔を持たないという特性と力を活かし、未来を受け継いでいってくれる若者や子どもたちに、笑顔で頼んだよと手渡せる社会を作り上げていきたい。
などと、思いは日に日に深くなるひとり旅。

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